観客の問題 ―芸術の社会性についてー

非常に難しい問題でもあるけれどシンプルな問題でもある観客の問題。一般的には芸術家は自身の衝動に駆られて描きたいものを描く、作りたいものを作ると考えられている。観客は安全な場所から芸術家の世界を眺めるという関係。しかし長い美術史の中では、作品を眺めること自体を作品として制作(提示)してきた歴史がある。これを観客の問題として考えてみたいと思う。

思いつくままに作家を列挙しながら考えていきたい。先ずはアメリカの作家カールアンドレ。彼の作品は、何かが作られる前の材料である工業製品や、角材が整然と並べられたり、積み上げられたりする作品。それを彫刻と定義している。作品のアイデアはその制作方法である。制作は必ずしも作家自身が行う必要は無い。各パーツとも言える材料を、実は一つ一つ違う向きや形を吟味しながらきちっと並ぶよう組み替えていく。そこには材料を様々な角度から見たり、感じたりしながら人々が自らの身体を通して作品制作に関わっていく。こうした協同作業は制作した人それぞれに響くことだろう。共通した理解は最初から無い。144Magunesium Squareという作品では実際にアートに興味のある人々に材料である鉛のタイルを並べてもらいそれぞれに感想を言ってもらう展示をイギリスのテートモダンギャラリーが行った。

続いてドイツの作家ヨゼフ・ボイス。彼は自身が乗っていた戦闘機が墜落した際助けてもらった体験(と言われている)をもとに生命と芸術をテーマに様々な人や社会に生きること自体を問いかける作品を残した。そこにはパフォーマンスを含んだ作品、大きな黒板を使った民主主義を問いかけるドローイング作品や、アメリカ大陸の霊獣であるコヨーテと3日間アメリカのギャラリーで過ごしながら資本主義を批判する作品などがある。いずれも私はこう思うけど君はどう考える?というある種の突き放した感覚がある。そこには答えとしての作品があるわけではなく、見る人のアイデンティティを引き出す狙いがある。

他にも以前紹介したオノ・ヨーコの真っ白いチェスゲームがある。観客が通常は白と黒で戦うチェスをお互いが白い駒を使ってゲームをするとどうなるのかという平和をテーマとした作品はユーモアがあふれている。この、観客を前提とした作品とはいったいどういうことなのか。それ以外の作品とどう違うのだろう。では観客を前提としない作品は成立するだろうか。一人で、発表する機会を考えていない作品制作がそれに当たるのだろうか。そうではなくて、作品の制作に観客が関わっていくということが一番重要なことなのだろう。では何故作品制作に観客が関わる必要があるのか。

そこには“社会”という概念が組み込まれているのではないだろうか。“社会”という概念は作品を制作する以前からこの世界に存在している。言わば、社会というキャンバスに対して如何なる絵を描くかということである。その絵の構成要素として様々な人々の解釈や意見が必要になってくるのである。言わば民主主義の根幹とも言える。この“社会”という漠然とした空間を満たしていくのは一人一人の観客なのだろう。現代の美術は観客を必要としているのである。こうした美術の傾向は、昨今の国際美術ビエンナーレなどに引き継がれて社会問題など個人で解決できない問題を問う機会として、受け継がれている。