堀内正和のユーモア −芸術の社会性について−

 
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 神奈川県立近代美術館葉山館で堀内正和展を見て来た。堀内正和の彫刻は画像等で知ってはいたが、展覧会を見たことは無かった。初期の石膏による頭部などの具象彫刻は良い作品だが何となく硬い感じがした。続く部屋では彫刻が分厚くなってしまうことから開放されたと自身が語っていた鉄の線材で出来た空間的な作品が紹介されていた。突然そこから泉が湧くように作品が次々と生み出されていったように感じた。所謂堀内正和らしい初期の作品では、メビウスの輪のような無限をモチーフにした樹脂と石膏の作品があった。この頃はまだ地面から彫刻が生えてくるような、ボリュームとしての彫刻であった。しかし中期のIKOZON彫刻(覗きの反対読み)では、ボリュームは表面的なもので、観客が作品を見る(覗く)ことで彫刻が成立する仕組みになっている。陰陽のような構造がカタチになっていて、素材は石膏などの実体があるものでも見ているうちにどこまでも終わりの無い感覚に襲われる。カタチが互いに入れ子構造になっている丸と四角など。その同じ部屋には堀内正和の紙の模型彫刻が、ある一区画にたくさん並べられていた。一瞬ブランクーシのアトリエを思い出した。同じ形を違う素材で制作したり、大きさが少しずつ違っていたり、お互いの彫刻が連鎖しあっているような。堀内正和のたくさんの紙の模型彫刻も似た雰囲気があった。現に堀内正和の言葉にも、山のように増えていく模型彫刻がまた次の作品を生み出すきっかけになっていくのだという言葉があった。
 ここまで書いてきて、堀内正和の彫刻にユーモアをどう感じるのかを課題にしながら展覧会を見ようと予定していたことを思い出した。私には表面的なユーモア(ニコニコした記号など)よりも、視覚から引き起こされる無限感覚の方が気になっていた。そしてまるでモデル(模型)のような彫刻たち。さらに彫刻作品の重量が全く感じられないのである。浮遊感とは違う。存在感が無いわけでは無い。実際に展示会場で作品に囲まれていると、在るのに無いような感覚になる。また石膏作品などが経年劣化をしていたが、その彫刻の表面は気にならなかった。狐につままれたような気持ちで、最後の部屋へと入って行った。高い天井のある空間にバランスよく彫刻が置かれていた。私は何故かしばらくその部屋に入る事が出来ないでいた。手前でその空間に発生している緊張感を感じていた。ずっとそうしているわけにもいかないので、やっと入った私は今までのユーモアとは違う空気がここにあると思った。大型の斜め円錐に円筒のカタチを繰り抜いた作品があった。大きい作品なので繰り抜かれた円筒部分の空間に頭を入れてみた。何故かゾッとした。恐怖感だった。私は丁寧に繰り抜かれた虚の空間を眺めた。円錐を円筒が貫く際に出来る曲線は、実際に目の前にあるにも関らず何故かカタチとして認識出来ない。線は円錐の表面に出来た言わば切り傷のようなものだ。しかし、切られた痕跡は感じられない。中期の作品から登場するカタチの中にある穴のカタチ。外見がそもそも観念的なカタチであり、そこに穴を空けることは、思考の中に穴が空くようなものか?大型の円錐に空いた円筒を覗き込んだ時の恐怖が蘇って来た。
 そう言えば、途中の部屋で堀内正和がプラトンの言うように現実の世界はイデアの世界が鏡に映った世界ならば、現実の世界を鏡に映せば逆にイデアの世界が見える、、、と言っていたのを思い出した。私はそれこそ穴から出るような気持ちで会場を出た。その日は車で葉山まで来たのだが、帰り道しばらく道路を走っていても現実が上手く掴めず、運転が不安で仕方なかった。私は、常々戦争やその他人間の負の部分はそもそも人間の観念が作り出したものであるし、その他の現実も作られたものだと感じていたが、まさかイデアと現実がひっくり返ったことで運転に支障が出るとは思わなかった。これは、堀内正和が仕掛けたユーモアなのか。