「芸術と福祉」 -芸術の社会性について-


先日職場の福祉施設理学療法士アフォーダンスの話になった。アフォーダンス(元々は生態学の用語)とは簡単に言えば、生物が環境に働きかける時に得られる意味のようなもの。福祉の現場で利用者(福祉サービス利用者のこと。以下利用者)の主体性を第一に考えた場合、身体や知的に障害のある利用者がどう自ら動きたいのかを自覚出来るよう支援者が促せるのかを支援者(福祉従事者)として私は大切にしている、と理学療法士に話をしたことからアフォーダンスの話になったのである。

例えば○○がしたいと誰かが思った場合、どんな動きを身体がするのかを本人が了解している必要があるからである。ご飯を食べたい、トイレに行きたい、眠りたい等々。ご飯を食べたいのなら、ご飯を作るのか、買うのか、どこで食べるのか、どんな道具で食べるのかなど様々な事柄をクリアして初めてご飯を食べることが出来るからである。
なぜこんな話と芸術が関係あるのかと思うかもしれない。しかし芸術そのものが誰かの頭の中と外界が繋がる「契機自体」を指すものと考えている私としては、アフォーダンスの概念である「生物(人間)は内界と外界が繋がっていくこと」という発想は合点の行くものであったのである。これは芸術とは出来上がった芸術作品を物体として外側から了解するのではなく、芸術作品が出来上がっていくプロセスが大切なのだということに繫がっていく。

少し話を具体的にしたい。それは巷に広がる芸術は良いもの、だから福祉にも良い、あるいは社会に必要だという昨今の○○アートに対する私なりの反論が背景にある。私の反論の起点は当事者がそこに居ないという点にある。芸術や福祉を発信、受容するプロセスを蔑ろにして既知の情報としての芸術や福祉に終始した場合何が起こり得るだろうか。その代表として記憶に新しいのは先日の愛知トリエンナーレでの先走った作品への先入観による展示中止の件。福祉に関しては、相模原のやまゆり園での事件において人間の主体性が論じられぬまま被告の罪だけが報道で論じられた問題。何れも当事者が退けられている。

もっと突っ込んで言えば、当事者自体という存在は居ない。必ず外界との関係において人間や生物は存在するからである。ここで今一度芸術と福祉の親近性について書いてみたいと思う。私が働く福祉現場で、“季節の飾り付け”という日中活動があった。春がテーマであり、春のイメージをネットで検索した画像を印刷して部屋に貼っていった。その時私が支援者として大切にしたことは印刷した画像を利用者が自らハサミで切ることや、利用者自身が画像を部屋の好きなところに貼って良いことだった。この、利用者が本人の“好きにする”という主体性と、芸術の成立に大切な外界と内界の関係性が同じこととして私には感じられるのである。

勿論乱暴に、芸術と福祉が同じであると言っているのではない。芸術と福祉の親近性がどこにあるのかという論議をする場合当事者性をどこにおいて話をするのかということをもう一度社会的に共有する必要があるのではないかと考えたからである。この話に所謂結論は無いが、現代はあらゆるものや概念が連携していかねばならない時代。人間が生きるという局面において物事の本質がどこにあるのか、情報化社会における情報は本質ではありえず本質を探るきっかけでしかないのだから。