反芸術は反社会的か。

 第一次世界大戦が起こったころに時を同じくして生まれたダダイズムという芸術運動があった。既成の芸術概念を否定し、詩、絵画、演劇など様々なジャンルで芸術の制度を問い直した。それらは、戦争に対する絶望や虚無的態度から生まれる人間的抵抗を表している。
 この間早稲田大学会津八一記念館において「ダダイストツァラの軌跡と荒川修作」展を見た事で改めてダダイズム(反芸術)を振り返りつつ、反芸術の社会性を検証してみたいと思った。
 私が初めてダダイズムに触れたのはクルト・シュビッターズというドイツの芸術家の作品を通じてだった。有名な作品は、絵の具を使わずにチラシの切れ端や、領収書、チケットなどを組み合わせた小さな平面作品である。私はそれらの作品を見ながら、何か意味があるものが描かれていないのに宇宙、リズム、詩を感じたことに驚いた。また、それらが生活品であり、モノとしての価値が終わった不用品で構成されていたことに二度驚かされた。そこに、芸術が社会を超えて我々が生きている世界そのものを享受する可能性を見出した。そして、ダダイズムが発する“批評性”が芸術という、権威的なものに対する抵抗を試みている運動であることに自身の認識を改めた。
 また、ハンス・アルプという同じくドイツのダダイズム彫刻家は、自然をモチーフにしながら彫刻が持つ正面性を排除した作品を多く制作した。それらの作品にも共通した「意味」への抵抗が試みられている。「オブジェ言語」とされるハンス・アルプの作品イメージは、人体の形と身の回りにある生活用品の形の相似性からそれらを等価値にし、意味が持つヒエラルキーを解体し我々が生きている世界そのものを作品を見る人に喚起させる。見た目が可愛らしいカタチの彫刻作品なので実物の作品を見るまではそのユーモラスなイメージしかなかったが、実際作品を見た時に感じたハンス・アルプの「怒り」を今でも憶えている。
 他にもたくさんのダダイズムを主張した芸術家はヨーロッパを中心に1910年頃にいた。さらにヨーロッパ出身であるがニューヨークで活動したマルセル・デュシャンダダイストであった。有名な作品として無審査作品展に出品を拒否された、既製品である男性用の小便器を横置きにして、そこにR.Muttと署名した作品がある(現存せず、写真だけが残る)。この署名の意味については諸説ある。マルセル・デュシャンの巧妙な言葉遊びなので興味のある方は考える価値あり。概要としては作者である芸術家を皮肉ったものだ。男性用の便器の作品もタイトルは「泉」となっており、有名なドミニク・アングルのパロディである。これらのマルセル・デュシャンの制作態度は、アイロニーやユーモアを通して「制度である芸術」を解体することにある。その解体の向こう側には生活と芸術の融合が目論まれている。私は以前横浜美術館で行われたマルセル・デュシャン展を見たときに感じた、「生きている」感じと、色気を作品から感じた。
 彼が発明した「レディメイド」という概念は、芸術的な画材を使わなくても既製品で芸術は作れるという画期的なものであった。これもマルセル・デュシャンが大切にしていた生活と芸術の融合の具現化である。
この「レディメイド」の概念は後にアメリカのアーティストであるアンディ・ウォホールに引き継がれていく。アンディ・ウォホールは誰もが知っているコカコーラやマリリン・モンローを作品のイメージとして使っている。アンディ・ウォホールはポップアーティストとして知られるが、作品のコンセプトには「レディメイド」があり、ダダイズムの影響を受けている。
 ここまで書いてきて制度としての芸術を批判、批評(反芸術)することで、芸術と我々が生きている世界が繋がるということが分かって来た。そしてその“我々が生きている世界”は同時に「社会」でもあるが故に様々な制度に囲まれている。制度は社会のベースであるが、全てが正しい訳ではなく問い直すべきものもある。そうした批評性が社会を健全なものにするのではないか。表題の「反芸術は反社会的か」、は面白い言葉なのでここでは答えずにそのままにしておこうと思う。