ローカルな私達。展(芸術の社会性)

 “ローカルな私達。”という展覧会を2017年2月15日から23日まで高島芳幸と大川祐(筆者)の二人の作家で、上野池之端ストアフロントというギャラリーで行った。小さなギャラリー空間(3m四方くらい)だが、そこでしか出来ない展覧会を考えた。通常作家が数人でグループ展をする場合、ギャラリーの壁面や床を分担してお互いの作品空間が緩衝しないように設置する。そこには制度的な作品概念がある。私は今回この展覧会を考えた時、そのような制度的な作品概念(所謂油絵や彫刻)を問い掛けることにより、現実の社会におけるお互いの文化の境界で何が起きているのか少しでも想像出来るきっかけになればと思っていた。高島さんと打ち合わせを続ける内に、作家の身体の話になった。作家の身体はそれぞれに違う。作品の個性以前の絶対的な違い。そうした身体性が意識された、作家のそれぞれの身体感覚をギャラリー空間に持ち寄るアイデアが浮かんだ。展覧会タイトルの“ローカルな私達。”という言葉は、グローバリズムの社会に暮らす、ローカルなそれぞれ違う身体を持つ人々をイメージした。
 作品は高島さんがズリ石と呼ばれる石に白いゴム糸を巻き付けてギャラリーの空間にピンと張っていく作品。大川は黒く塗った高さ2820mmの角材をギャラリーの床と天井に突っ張らせた作品。ギャラリー空間全体が作品であった。
 作品を見に来た人の言葉を拾ってみる。先ず、高島さんの作品には気付いたが、大川の黒い柱の作品には気付かず、「ギャラリーにこんな柱ありましたか」という人や、小さい空間に何人か人が居て、作品にぶつかってしまうことがあった。ぶつかってしまった人や気付かなかった人には申し訳なかったが、この展覧会の一つの特徴を端的に表わしていたような気がした。狭い、あるいは小さな空間では人は対象物に対して距離を持って客観的に認識することが出来ない。興味深かったのは、展覧会に来た人がそれぞれに別々の感想を持っていたことだった。私の職場(知的障害者施設)の同僚が見に来てくれたのだが、彼女は展覧会に来て、大川作品の黒い柱にある溝や、照明用の光、天井の穴などを見つけて楽しんでいた。彼女は仕事上、施設の利用者の表情や体調の変化を見なければならないので「もっと見つけられるよ!」と言っていた。
 逆に高島さんの作品に気付く人は、その作品の造形性に目が行く。高島さんは展覧会が終わった後の話し合いで、物質的な大川作品に対置するために少し空間から飛び出すように展示したと話してくれた。高島さんが私が作品展示した後、ギャラリー空間にずっと向き合いながら自身の作品の設置を考えていた姿がとても印象的であった。実際高島さんの作品を見た人は白いゴム糸の緊張感や儚さ、白いゴム糸が展示空間に作り出すねじれた四辺形に実際には見えない空間感覚を楽しんでいた。こうしたそれぞれ二人の作家の違いに見に来た人の個性が表れたのは、作家の自我としての作品への評価よりも展覧会自体の社会性を表わしているような気がした。
 展覧会への象徴的なコメントとして、今回二人展ではないのですか?という言葉を聞いた。作品が二つ並んでいるようなイメージを避けようと意図した展示であったが、改めて他者の言葉を聞くことで展覧会は成立するものだと実感した。