パブロ・ピカソとジョルジョ・ブラック -芸術の社会性について-

 

 f:id:yu-okawa:20200314174327j:plain f:id:yu-okawa:20200314174342j:plain

たまたま福祉の職場でピカソとブラックを紹介することになった。事の発端は日中の活動で行ったコラージュのことだった。美術を学ばなくてもコラージュという言葉は馴染み深いと思う。糊で貼るという意味の言葉。美術史の説明を利用者にするためにインターネット画像を見比べながらピカソとブラックが何ゆえにコラージュ技法を共有しながらキュビズムに向き合っていったのだろうと考えた。一般的にはアーティストは人と違っていなければ仕事として成り立たないと思われている。それはモダニズムのコンセプトの一つであり、作品が商品であることからオリジナリティーを求められる背景もある。もちろん個を追求することを否定する考えはない。しかし、ともすればどちらの作品か分からないほど絵画技法を共有し、絵画の実験を進めた二人は何を共有し、どこから己の道へと歩んでいったのだろうかという疑問はあるだろう。
パピエコレ(コラージュと同義。ピカソとブラックについて良く使う技法)作品はギターのイラスト、新聞雑誌の切り抜き、楽譜、壁紙、木目模様などピカソとブラックは執拗にモチーフを共有した。作品を見る側からすれば、作品の個人情報としての「何」が描いてあるのかというインフォメーションを共有されてしまうのは「誰の作品を見ている」という満足感を得られない。しかしピカソとブラックは自分たちがどのようにモチーフを解釈して表現するかに集中したかったのかもしれない。歴史的な解釈としてはブラックがセザンヌの影響からキュビズムのアイデアを模索していたとされる。そこへピカソが現れ、キュビズムを二人で推進していくことになる。当時のピカソはアフリカの仮面に影響されながらキュビズムに近づいていた。
最初は、一つのモチーフを様々な角度の鏡を通して見たような切子状の形で埋まる画面だった。しかし抽象化が進みすぎて、モチーフの原型を失っていってしまう。そこで現実空間にある虚構のイメージの断片(壁紙や新聞の切り抜き)を寄せ集めて、絵の中で貼り合わせて直接的に3次元から2次元に落とし込む方法を思い付く。このパピエコレ(コラージュと語義は似ている)の技法がキュビズムを押し進めていく。では何が推し進められたのであろうか。ブラックはギターなどのモチーフが全て一つのテーブルに載っているかのような統合的な画面設定だった。それに比べてピカソはあくまで断片が寄せ集められるがままの中心の無い画面。
美術史というものが、人が世界をどのように見るのかという文化だとすれば、この二人のスタンスの違いは社会的にはどんな意味を持つのだろうか。単純に二人を比べてみたい。ピカソはいつも散逸的で断片的であり、アフリカ美術に影響されるような非再現性(主観的)に拘っていた。俗に言うピカソの天才とはそうしたどこまでも拡散していく自我の産物なのかもしれない。比べてブラックは求道的で再現性(客観的)に拘っていた。
二人のパピエコレを比べると良く分かるが、お互いのモチーフ、色使いは殆ど変わらないのに、ブラックの画面は静かで安定して思慮深い。しかしピカソの画面は常に変化を求めていて、異物同士がぶつかる感覚がある。キュビズムとはそうした極度にプライベートな感覚を現実世界を通した場合どう了解し合うのかという実験だったのかもしれない。こうしたキュビズムの実験は現代の美術の動向である「いかに個人が社会を共有するのか」というポストモダンの課題とどこかで繫がっているように思えるのである。