「アジアにめざめたら」展を見た。−芸術の社会性についてー

 東京国立近代美術館で「アジアにめざめたら」展を見た。1960−1990年代にかけて行われたアジアの現代美術を振り返るという企画展。現在、西欧中心主義の美術史に対する懐疑があり様々な価値の多様化に伴い、西欧以外の文化からの社会問題への問い掛けなどの動きが活発化している。美術館もアーカイブとして美術品を管理保存するだけでなく、現在進行形で観客に社会問題を主体的に問いかける時代である。こうした中、アジアという地域がどう西欧に向き合ったかという歴史の振り返りでもある。
 最初に印象的だったのは、西欧美術に対する嫌悪や怒りである。キャンバスを燃やしたりし、既存の制度を消滅させてみる。そうすることで作品の背後にある制度を他者としてのアジアが炙り出す。展覧会には西欧人の観客も多く訪れていたが、そうした他者の視線を求めて西欧の文化を逆照射したいのだろうと想像した。物を燃やすという行為は原始的だが、政治的であり、非常にメッセージとして強い。美術自体がとても政治的なモノであるので逆に燃やすことで美術にある政治性が露わになる。こうしたコンセプチュアル(何が美術なのかという問い)な作品は価値が多様化する現代において顕著であり、美術の本来の無名性も同時に表現される。誰が作ったかが一つの価値になり、権威になることへの問い。その価値がどの文化を背景にしているのか、も同様だ。
 また70年代を境に作品が作られる状況やプロセスを作品にする流れもこの時代のアジアの現代美術に大きな影響を与えた。ここに作品の場所性というものが出現する。それは、それぞれの文化の共同体が持つ固有の時間感覚をも表わしていく。アジアに共通する感覚として、結果としての完成作品よりもそこに至るまでのプロセスを大切にすることがあるのではないだろうか。それは、出来上がる作品の周りの状況も作品として巻き込んでしまう方法論から、アジアの文化圏に住む人々の営みさえ見えて来そうだ。ある作品は、ギャラリーにテーブルを何台か置き、そこを期間限定の酒場にしようという試み。写真を見る限りでは、作家と思わしき人々が議論を交わしているような様子が写真として残されている。そこから彼らが対象物としての作品ではないものを何とか模索している様子が伺えた。さらに同時代美術に美術的観念を物質に還元するという動きもあった。これは、近代的理性を物質に還元することにより個々の作家性ではなく、美術作品の普遍性を探る試みだった。これに対し、アジア文化は別の顔を見せた。それは“物質自体”から美術が成立する方法を選ぶと言うものだった。それは、アジアの自然観の現れである人間と自然を等しく捉える考えが露わになる結果に繋がった。
 展示テーマのおかげで社会的な問題を直接具象絵画などで訴えるリアリズム絵画も多く見受けられた。これらの手法は広く西欧でも見られるが、改めて芸術とは個人を離れて人々の生活(ここでは西欧と向きあうアジアとして、または集合無意識)を映し出せる可能性があると再認識した。ここまで書いてきて、この展覧会の空間にいて感じる奇妙な感覚は何かを考えてみたい。それは普段の日本に暮らす我々が無意識に西欧の方を向きながら、一方で内面は内側の共同体に向かって生活を営んでいる事実が目から鱗が落ちるように実感されるのである。高尚な美術を美術館に見に行くのではなく、正に生きている我々が現実社会に向き合うための装置として機能しているように思われた。あの独特の内側と外側がひっくり返ったような感覚。美術館の外側へ出た私は、ここは正にアジアなのだと思った。そしてアジアに流れている時間もここにあると。