芸術と眼差しⅢ 「インスタレーションについて」

 私は今、インスタレーションという芸術の作品形式に言及しようとしている。何故か。それは、絵画と彫刻を伝統的に眼差して来た芸術家はインスタレーションという現代の作品形式にどのように関わっているのかという疑問が生じるからである。私も作家として、作品形式を問われるとインスタレーションを主な表現手段としていると答える。インスタレーションとは、設置型の作品で観客と作品が展示場所を通じて相互的にコミュニケーションを取る作品形式である。昨今話題になった愛知トリエンナーレの主な作品形式である。   

 

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 最初に取り上げる作家はロバート・ゴーバーである。アメリカの彫刻家で、シンク(洗面台)やローソク、足をモチーフに日常を物語化して表現している。作家の顔の画像を最初に見て思ったのは従来の画家や彫刻家とは表情が違うことだった。彼の眼差しは遠くを見ていて虚ろなのである。しかし決して生気が無いという意味ではない。どこを見るというのでもない虚ろさがあるのである。ローバーの作品は同じモチーフが繰り返される。同じモチーフを繰り返しながら何か見えないものを見ようとしている。印象的な作品のシリーズに男性の下半身が壁から突き出ているものがある。靴底が露わになっていて、誰のものでもない何か生の痕跡を見ている気がしてくる。足という部分は手と比べて表情に乏しい。誰の物かはわかり辛い。だからこそ見えないものを見ている感覚に襲われる。またマリア像を下水管のようなものが貫通している作品がある。その見えないものへの眼差しが彼の虚ろさに繋がっているのかもしれない。シンクの作品においても我々の生のネガティブとしてのメタファーを感じるのである。

 

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 次に参照するのは先日亡くなったロイス・ワインバーガーである。オーストリアの芸術家でシャーマニズムを背景に現代の資本主義に対して植物をモチーフにして政治的に批判していく作品。詩的でありながら政治批判をする作家スタンスに芸術の根源を見る思いである。植物という造形物では無いものを提示して作品化していく。作家の顔を見てみる。遠くを見据えて表情が厳しい。そして作家のエゴを感じない。試しに先日取り上げた彫刻家のエドワルド・チルダの眼差しと比較した。チルダは作家としてのエゴをその眼差しに持っている。ロイス・ワインバーガーは雑草を作品に取り上げながら生命活動をしている我々生物のありようを問いかけている。そうした生態的な感覚は、先のロバート・ゴーバーの感覚にも見て取れる。
 

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 岐阜県に天命反転地というテーマパーク型の作品がある。制作したのは荒川修作である。私も一度訪れたことがある。全てが逆さまになっていて、歩くのに困難が付きまとう。そうした困難から新しい生命エネルギーが生まれるという作品。作家の顔を見てみる。遠くを見つめて虚ろな目をしている。有名な作品にダイアグラムペインティングがある。言葉の概念である指示を巡って人が指示されていることへの揺さぶりをかける。そうした途方も無さも個人を離れた荒川の作品制作態度に表れているのだろう。

 


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 その荒川修作に影響を与えた人物としてマルセル・デュシャンがいる。デュシャンはまだインスタレーションという言葉が一般化する前にオブジェという概念で絵画でも彫刻でもない作品を制作していた。デュシャンは生活と芸術が結び付くことを目論んだ。作品制作を辞め、チェスに熱中することもあったが、そのチェスにおける思考が作品制作に繋がっていたようである。デュシャンの眼差しもまた虚ろである。作家というアイデンティティ(同一性)に揺さぶりをかけ、造形対象としての芸術ではなく“生きる様”を作品化した。有名な作品に「泉」がある。トイレの便器をその用途ではないオブジェに変えた。これも先に書いたロバート・ゴーバーのシンク作品に繋がる見えない我々の生そのものの視覚化ともいえる。


 設置型作品であるインスタレーションを改めて考えてみると観客と積極的にコミュニケーションを取るということが言える。現在生きる我々の生と地続きである虚構を作ることによって「我々」という人称を作ろうとしているのか。それには我々が生きる無意識そのものを見つめる必要があり、それが眼差しの虚ろさに表れているのかもしれない。