突然ですが、作品とは何か?

 浅草橋にあるマキイマサルファインアーツへ、Fundamental展を見に行ってきた。美術家中津川浩章氏のキュレーションによる展覧会が行われている。私の職場の施設の利用者(施設では仲間と呼んでいる)の展覧会でもある。1階と2階で雰囲気が異なり、非常に示唆的な展示になっていると思われた。
 中でも印象的だったのが、杉浦篤さんの写真作品(L判サイズ)だった。杉浦さんは家族との旅行先での写真、何気ないスナップ写真をアルバムには収めずにいつも触りながら、時には他人に写真を見せて話しかけたりしている。印画紙に写った写真は触りすぎて角が丸くなってしまい、画像も傷だらけで何の写真か判別できないものもある。私も実際に彼の部屋に入ったことがあるが、箱に沢山写真が無造作に入っていて見せてくれた。
 さて本題に入ろう。私が杉浦さんの作品の前でしばし呆然としてしまった理由を考えてみたい。杉浦さんの作品は写真と呼ぶにはずいぶんと物化が進んでいるし、物と呼ぼうとするとそこに写る杉浦さんの思い出がそうはさせない。写真の物理的な表面は杉浦さんが触れ続けた痕跡が現実の時空間を形成している。一方で虚構として存在している写真の内容は記憶という過去の時空間に閉じ込められている。その虚構と現実の拮抗が、見る者に強い印象を植え付ける。しかし、杉浦さんにとっては生きている現在と写真によっていつでも呼び出せる過去の思い出が一体となり、時には他者とのコミュニケーションツールになっている。
 ここで作品とは何かと問うた場合、絵画であれ、彫刻であれ、ダンスであれ何らかの時間が作品の中(現在的なインスタレーションを含め)に封じ込められていることを改めて確認することになる。その封じ込められ方が作品というイリュージョンを産み出し、作品という制度を成立させている。それと杉浦さんの写真作品を比較した時、虚構である写真を杉浦さんが大事にし、触れ続け、さらに持ち歩き、物化していった時にそのプロセスが作品を産み出していることになる。もう一つは杉浦さんが作品としての意識を持っていないこと。これも重要な要素として考えなければならないだろう。
 障害を持った人の表現が社会に繋がる時、こういった作家本人が作品意識を持たない場合が時々ある。彼らの生活を支援する時、杉浦さんのように写真が彼にとって大切な何か心の支えになっていることを発見することが良くある。また支援者が作品というイメージを、利用者の生活の中にある自己表現の中に見つけることによって利用者という枠を外して一人の人格として向き合うきっかけになる。また障害を持つ人が社会性を獲得していくチャンスにもなっていく。
 ここまで書いてきて少しでも杉浦さんの作品のインパクトを理解出来ただろうか。そういえば自分が小さい頃、写真屋から出来上がった写真を早く見たくて触ろうとすると、ダメダメ指紋が付くよ、と怒られたことを思い出した。