成田克彦展

 昨日東京造形大学に成田克彦展を見に行った。同時に成田克彦に纏わるシンポジウムが開かれ聴講した。まずは展覧会をと思ってギャラリーへ向かった。私の中では成田克彦はもの派の作家という認識であった。今回その辺の時代の空気を確かめたい欲望も存在していた。
 展覧会を一通り見た感想は、何か捉えがたいが同時に身近な感覚を持ち合わせている作品だなという印象だった。シンポジウムを聞きながら自分の成田作品への感覚を反芻していた。成田克彦というともの派的な炭の作品が思い浮かぶ。それも画像を通してである。今回の展示作品は炭を使った作品もあったが、それは逆に成田克彦を感覚する導入であると感じた。まず目に入ったのはキャンバスをくるくる巻いて筒状にしたものを床に立ててその筒の真ん中辺りに女性の陰部を思わせる毛が付いている作品に対峙した。正直今思い返しても、作品を鑑賞している時には何となくしか掴めなかった。それが作品を見終わりあれは何であったかと想起する時に初めて立ち上がる何かを感じた。
 シンポジウムでは成田作品のエロスやスケール感に触れていた。そういった、他の作品と比較した時に初めて表れるような感情は何に根差しているのか。展覧会のパンフレットの言葉に”存在と不在”や”存在と認識のギャップ”というものがあった。不在と言うキーワードは当時の美術家にはある種共有した概念ではあっただろう。不在を示すことで存在を喚起する。それは成田克彦の作品の通奏低音として存在している。
 私は<the petal>と呼ばれた植物をモチーフにしたレリーフ作品を見ながら、普段スマホで花などの植物の写真を撮っている時の感覚を重ね合わせていた。特に花びらを撮る時に感じる花の平面性は、花という存在全体を撮る事は出来ず、ある視点からしかその花が何であるのか認識できない。その感覚に成田克彦の作品の存在感覚を認めた。またシンポジウムで指摘されていた<tree of life>のキャンバスの幅が女性の肩幅を思わせるということからも、成田作品の”実体”が彫刻や絵画という既存の美術形式を離れ、何か”リアル”な形式を求めていたのではないだろうかと思われる。そのリアルというのは有体に写実なのではなくシュールリアリズムとも呼べるような超感覚が存在していたのでなはいかと。
 私は既存の絵画や彫刻の形式を逸脱した成田克彦の作品制作の姿勢に批評性を感じながら、同時に成田克彦という作家の存在を作品の裏に見た気がした。