ゲルハルト・リヒター展を見た。

 ワコーワークスオブアートでリヒター展を見た。まず目に飛び込んできたのは代表的なスキージ技法によるキャンバス作品、パネル作品があった。実際の作品が大きくなかったせいもあるが、一見大胆に見えるスキージ技法は非常に丁寧に色彩が重なっていてた。動的に見えるはずの、あるいは様々な色面の偶然性が、自然性や物質性や現実性を想起させるはずだ。しかしそこには「絵画」概念による矩形をとても意識した観念としての作品が壁に張り付いていた。リヒターの作品は非常に平滑な印象がある。その平滑なリヒター的「絵画」概念が同じスキージ作品でもキャンバス作品とパネル作品では印象が違う。その印象の違いは物理的結果としての違いであって、物理的な結果の違いがそのまま作品になっている。ここで説明しておかなければならないのはリヒターの作品は観念的でありつつ尚且つ物理的なものに作品の構造を委ねている。作品を成立させているのはリヒターの絵画イリュージョンを支えている構造である。
 次の部屋に展示してあったものに、アクリル板に色を偶然を利用しながら付着させたものを裏返して平滑な面を表にして絵画作品としたものがあった。また同じ部屋の違う壁には色の付いたガラスが絵画作品として展示されていた。こういった絵画の支持体を強調した展示は観客としてはとても分かりやすいものだった。最後の部屋には、写真をモチーフにした作品が展示してあった。写真に直接絵の具が擦り付けられているものだが、先ほどのスキージの場合の様に描こうとする行為性と比べて何か平滑な板の上で絵の具を混ぜ合わせてベタッと写真に付けたものだ。写真自体がすでにイリュージョンを保持しているので、それに物質的な絵の具を載せてまた質の違うイリュージョンを産み出そうとしている。
 私はリヒターの仕事を見ながら、イリュージョンという概念の中に埋もれている無数の「絵画」を様々な物質の差異を利用しながら産み出している様に思われた。リヒターが絵画と写真の親近性を取り上げるのもそうした写真という概念がそもそも持っている”何かが写っている”というイリュージョンを指しているのだろう。
 リヒターの実作品を見て一番最初に感じたことは、画像と実物の違いだった。もちろん実物のほうが良い。実はそこにこそリヒターの仕事が潜んでいるのではないかと思われた。それは先に示した写真に親しみを感じていることとの差異を考えなければならない。私はリヒターの作品を画像で見ていた時に感じたのは印刷物としての「コピー」を見ている感覚だった。それが実物を見ている時には消え失せてしまう。
 観念と物質が繰り返し立ち表れる絵画構造にこそリヒターの本質があるのだろう。またそうした現象や知覚に立脚する態度に絵画の社会性を私個人としては感じられた。