倉重光則「Mellow Time」

 先日、銀座Steps Galleryにて倉重光則「Mellow Time」展を見た。以前の作品青い発光人体EBEの次に来る作品でもある。私はギャラリーに入ると白い16個の強い光を浴びた。それらは四辺形の枠の中に円形の光源とその周りに黒い円が縁取られていた。そして反対側の壁には恐らく倉重氏のものであろう影を縁取った輪郭の内側と外側が薄いグレーッシュな色で塗られているキャンバスが掛かっている。私はそのキャンバス作品を眺めながら、背後にある強く白い光との間に身体が挟まれたような感覚になった。その瞬間に、ピンとかキンとかいう瞬間的な音のようなものを感じた。また、前回のEBEでは自らの身体の正面が絵画の支持体を喚起したのに対して、今展の絵画の支持体は身体の正面と背面の間を貫く板のようなものを感覚した。そして、周りの空間に目をやると乱反射した光によって、ボワっとした光に包まれた不思議な光景が辺りに充満していた。対象との距離感が曖昧にされている現実がフワフワと漂っていた。
 倉重氏は今回は光と影がテーマだと言っていた。たまたま自身の仕事でプラトンの太陽の比喩、線分の比喩、洞窟の比喩を調べていた時、太陽の光によって照らされる知の対象や、洞窟で影絵のように映し出された影を真実だと思い込んでしまう例えと倉重氏のテーマが結び付いた。「私」の身体が四角い光によって照らされて、多数の強い光で「私」の影が消されている。キャンバスに描かれた、“顔の無い”のっぺらぼうのカタチは、影であると同時に倉重氏の身体の輪郭(対象)も表わしている。作品を見ている「私」の影が消えることと倉重氏の「影」が重なっていく。ここで、私の身体の真ん中が絵画の支持体になる経験をしたのかもしれない。
倉重氏の仕事の一つだと私が考える、絵画の側面の問題があの乱反射したフワフワした展示空間の光に紛れているような気がした。そこで私は勝手に、展覧会タイトルの「Mellow time」“豊潤な時間”と結び付けて何かを納得した気になった。

熊谷守一の不思議なカタチ。−芸術の社会性について−

 東京国立近代美術館熊谷守一展を見に行ってきた。有名な、あの赤く縁取られた輪郭線のカタチの不思議さを確かめたかった。熊谷守一は、いつからあの独特の感覚を得たのか。先ず目に入ったのは、「轢死」と題された作品。1908年(明治41年)制作。女性が自殺した現場を偶然見かけた熊谷守一が描いたとされる。元々暗い色で構成されていたためか、現在はほぼ真っ黒な状態だった。わずかに見えた横たわる女性のモチーフが印象的である。次に私を捕らえたのもやはり死のイメージだった。「陽の死んだ日」という作品。息子の陽が高熱を出して死んでしまい、何もしてやれない熊谷守一は息子の死顔を描き始めた。熊谷守一の言葉に「次男の陽が四歳で死んだときは、陽がこの世に残す何もないことを思って、陽の死顔を描きはじめましたが、描いているうちに“絵”を描いている自分に気がつき、嫌になって止めました」この「“絵”を描いている自分に気がつき、嫌になって止めました」の部分が強く脳裏に焼き付いた。
 熊谷守一と言えば、簡略化された線と色彩で構成された達観したような作風で知られている。晩年の庭先の蟻や蝶々などの小さな世界に生命を託しているイメージがある。国から貰うはずだった勲章も受け取らないなど、世捨て人な印象もある。そうした熊谷守一の作家としてのスタンスが私を強く惹き付けた。私は展示作品を見ながら、いつあの「不思議なカタチ」が始まるのか目を凝らして一点一点睨みつけていた。それは一枚の風景画に見つけることが出来た。「高原の道」という作品。どこかの山へ登る途中の高原の道が描かれた作品。その絵の中に描かれている岩に「不思議なカタチ」を発見した。「あった!」と思わず私は心の中で言った。ゴロっとしているはずの岩が、輪郭だけの存在になり、中がベタッと塗られている。また絵のタイトルになっているように、遠近法としては奥に行くはずの「道」が立ち上がって来るように見える。この絵から何かが始まっている。熊谷守一はまだ無意識であるだろうが、何かを掴んだように見えた。
 では、それは何か。熊谷守一は生涯様々なモチーフを描いた。裸婦、風景、静物、身の回りのもの。私にはそうした熊谷守一の、「世界の全てを同時に感じる」感性が絵を描かせたのではないかと考える。初期の実験的な暗闇で描かれた自画像などは、光と影で陰影を作り世界を対象化していく洋画に対する挑戦ではなかったろうか。また死のモチーフは古今東西あるが、熊谷守一は生死を越えた「のっぺり」した世界を無意識に探していたのではないかと推測する。前述した「高原の道」以後、積極的に風景画に挑んでいる。しかし、美しい風景を探しているわけではなく、「何でもないもの」を探すために山を登り、海岸に出掛けている。
 このころ、熊谷守一の色彩に変化が出ている。それは、彩度と明度(鮮やかさと明暗)の違いを上手く使い分けて画面の中の色が出たり入ったりしているのが確認される。そして山や海、空、岩のカタチの輪郭線が強調され、区切られた中のカタチはベタッと塗られている。画面の効果としては、空や岩が同じ次元で描かれているように感じられる。また展示されている資料のスケッチに、塗り絵のように何色を塗るのか明確に下書きがされている。これは、当時の一般的な洋画の常識にあった絵の具を塗り重ねる中で作品を「制作していく」というスタンスとは全く異質のものである。
 なぜそんなことをしたのか。他のスケッチでは人物の顔が「一筆書き」で描かれているものがあった。そのスケッチの完成作品は、一筆書きで描かれたカタチを一部区切って「顔だと分かる」ように描かれている。このように、様々な実験を繰り返しながら熊谷守一は世界を「一つのもの」として捉えたい衝動に突き動かされていたのではないか、と思われる。熊谷守一は徐々に絵のモチーフそのものに「何でもないもの」を求め始めた。「雨水」「土塊」「焚火」など。普通は描かないものだ。しかし同時に、モチーフに「答え」を求めて安住することはせずに、わざと一般的な裸婦を描いて自己を検証する姿もある。私はこんなにも己に厳しい作家の姿勢に、一枚の絵を見ただけでは分からない「生き方」の時間を見た気がした。

長谷川等伯展を見て。ー芸術の社会性についてー


 

 私は現代アートというジャンルで作品を作っている。現代アートとは西洋の美術史の中から出て来た美術の形式である。その美術形式を明治時代以降の近代化(西洋化)された教育及び文化の中で考えている。しかし、美術と言うものは、観念で制作するものではなく、“風土”の中で培われるものである。先日、早稲田にある永青文庫長谷川等伯展を見に行ったのは、そうした非西洋文化としての水墨画を“風土”として検証する意味合いがあった。商山四皓図などの襖絵が、本来の畳の高さではなく、見上げる位置に飾ってあったのは少し残念ではあったが。
 私は先ず、長谷川等伯の運筆の確かさに驚いた。もちろん直しの効かない水墨画の技法からの印象もあるが、一つ一つの筆が置かれた墨色の確かさと、筆触が表わす表現の正確さに非常な実在感があった。何がこのリアリティを支えているのか注視してみた。すると、松の木の葉と幹の質の違い、岩の質など様々な違いが表現されていてそれが一つの世界を作っている。また、人が馬に乗っている姿から重みを感じ、松の幹から重みを感じるのである。全てのものが重みを持って存在している。しかし、西洋的なパースペクティブ(所謂線遠近法)の視点で描かれていないため、絵を描く人あるいは絵を見る人の視点を感じにくい。そうしたパースペクティブで描かれていないからと言って芸術性とは全く関係は無い。さらに見ていくと、松の木が植わっている地面や馬が歩いている地面、また描かれた要素を繋ぐ何も描かれていない空間、また空を想像させる高い位置にある空間。それらは唐紙の地の色で表現されている。良く日本の美術に余白を大切にする文化があると言われる。気を付けなければならないのは、その余白が何を示すのかである。余白という存在が最初からこの世にあるわけではなく、何かを示唆する暗喩であるのだ。私は余白(何も描かれていない唐紙の白い所)をジッと見た。先ず奥に行くイリュージョン(想像上の空間)ではない。かと言って襖の表面の唐紙の物質感が見えているかと思えばそうではない。その両方だという気がした。この感覚は長谷川等伯独特のものである。私は、この長谷川等伯の襖絵を畳に座って眺めていると、絵の世界と現実の世界が混ざるような想像をした。
 また、こういった西洋と東洋という単純な比較はともすると本質を外れた議論になる危険性を持っている。しかし敢えて言えば、長谷川等伯の筆の跡から見えたものは「手に頭脳」が付いているような感覚を憶えるのだ。これを比較論的に言うと、例えばゴッホピカソセザンヌも“頭脳を通した眼差し”が絵筆に伝わり、筆触化しているように思う。しかし、長谷川等伯などの水墨画は、手と筆で直接絵を表わしている。これは端的に言えば、書の文化ということになるが、先述した“風土”の問題というのは、身体を通じたドメスティックな事柄なので単純化して書くことは出来ない。出来ないが、絵の表面(支持体という)を境にした“文化の物語”は共同体として共有しているものがある。
 以前、オーストラリアの画家でエミリー・ウングワレーというアボリジニの人の展覧会を見に行ったことがある。大きな画面の作品は戸外で口にタバコをくわえながら、地面にキャンバスを置いて描かれていたものだ。アボリジニの“夢”の文化を継承したダイナミックな作品だった。その作品を見た後で偶然違う場所でアボリジニの他の画家の作品を見る機会があった。そこではアボリジニの人達が元来、木の皮などに上述した“夢”の文化を描いている写真展示があった。またそのアボリジニの文化は現在では西洋から輸入された制度であるキャンバスに描かれていて、実作品が展示してあった。とても違和感のある作品だった。私はここで、本来は木の皮(自然なもの)にアボリジニの“夢”の物語が描かれ、霊性が宿っていたのだが、西洋から入って来たキャンバスという制度の影響を受けてその霊性が失われてしまったのではないかと考えた。
 ここでもう一度、長谷川等伯の余白について考えられるだろうか。一つ考えられるのは、襖絵や屏風絵の美術形式が日本の“風土”の何を表わしているのかを考えることによって等伯の感覚に近づけるのではないかということがある。住まいというのは、土着的なものである。どう住んでいるのかということだ。襖絵や、屏風絵など元々は家具であるものに装飾を施したもので、間仕切りや風除けである。床の間に飾られる掛け軸は少し違い、もともと鑑賞することが目的の装飾品だ。何も無い場所を仕切ることによって成立していく建築空間。その仕切る動作が長谷川等伯の手から筆に伝わり、あるものは松の幹になり、あるものは岩になっていく。その何も描かれていない唐紙を墨色が仕切っていくことで、世界そのものが重みを持って実在し始めるのだ。
 今回の展示にはないが、長谷川等伯の作品に「山水図襖絵」というのがある。高台寺というお寺の住職が留守の内に、桐の文様の入った、襖絵には向かない唐紙に強引に桐文様を牡丹雪に見立てて冬の山水図を描いたという逸話がある。私はこの作品が後の長谷川等伯を作ったような気がした。それは、襖や屏風という現実空間に存在する家具に絵を描くことで、何も描かれていない余白に現実と虚構を行き来する構造を発見したのではないだろうか。ここで私は、“風土”や“余白”というものをことさらに強調したいわけではない。最終的には長谷川等伯の個人の感覚が芸術を作り出している。しかし、作品というものは当時の狩野派との差別化をどう長谷川等伯が図っていったかという社会的現実や、クライアントとしてのお寺などに対するアプローチは“文化の物語”を意識して作られたものでなければ成立しない。そこをこそ今回の展覧会を通じて私が検証したかったことなのかもしれない。

背中合わせの実存、松下誠子作品論。


 松下誠子の作品に出会ったのは、鵜の木のHasu no hanaで行われたパラフィンドレスが天井から吊るされたインスタレーションだった。そこには、松下誠子の声の作品や、写真を基にしたドローイングなども目撃した。その時の私は、作品から発せられる実存性はかろうじて捕まえられた。しかし松下誠子の言葉にある「第二の皮膚」とパラフィンドレスを表わす感覚が宙に浮いたままだった。二回目の出会いは、渋谷のLe decoで行われたセキュリティブランケット(幼児が安心感を得るために持つ毛布)がテーマであるパラフィンドレスのパフォーマンスだった。これは、私もパフォーマーとして参加した。言い換えれば、松下誠子の作品を内側から経験したことになる。ここで、感覚的なショックを味わうことになる。それは、リハーサルの時だった。パフォーマンスは、下着を着けない状態で直接ドレスを着て動く。通常服を身に着ける場合、服は寒暖から身を守り、またファッションとして見られている自分を想定している。言い換えれば、周りの環境との関係性が了解されている。しかし、パラフィンドレスはその了解が担保されていない。パラフィンドレスを身に着けると、自分がどのように見えているのか分からない。また、感覚としてパラフィン紙の皺によって身体(皮膚)に付いている所と離れている所がそれぞれに知覚される。そのそれぞれに知覚され、感覚されるドレスの皺が作る僅かな空間が、内と外を包摂する「感覚する時間」として発生する。
 この時のパラフィンドレスの経験が私に松下誠子作品を知覚するきっかけとなった。その次に私を捕らえたのは、横浜の石川町のアトリエKで行われたインスタレーションで出会ったクッションのオブジェだった。白いクッションのオブジェは、中が空洞になっている。それは、床と壁にもたれかかる様に設置されていた。その外側の展示空間に接する感覚が、何かを私に伝えていた。また、日常生活で“身を癒してくれるクッション”という身近な存在が松下誠子作品のモチーフであることに気付くことが出来た。しかし、その空洞を内包するクッションは石膏やセメントで出来ているようで硬い。そして表面に見えているクッションの皺がまるで感覚の記憶のようにそこに存在していた。この時、松下誠子作品に繰り返される、ある「感覚の構造」が見えたような気がした。再び鵜の木で行われたインスタレーションでは、パラフィンワックスの作品に出会った。壁に展示され、奥に女性の顔写真が見え、手前はパラフィンワックスの積層された空間が半透明の時間を作る。ここで私はとても私的な感情に捕らわれた。それは生きていて越えられないある感情だった。それは他者に出会った時に私が感じるプライベートな感覚が露わになる瞬間だった。私はジッとその感情を見つめたい衝動に駆られた。
 その時にも松下誠子作品に共有されているある構造が見えた気がした。それは、展示された壁から始まり、一旦女性の顔写真の表面を感覚し、さらに時間を置くとワックスの表面に表れている積層時に出来た皺に気付く。この常に表れる実空間へアクセスし続ける、内面と外面を行き来する感覚は、パラフィンドレス、クッションオブジェ、パラフィンワックスの作品に共通している。また、谷中HAGISOで行われたインスタレーションで見た、鳥のクチバシを模した羽根を纏ったオブジェとクッションオブジェの角の尖りが、共通の感覚で出来ていることに気付いた。これは、クチバシのカタチと、柔らかいはずのクッションの角が硬く尖っているカタチの相似に見られる。ここで、尖ったカタチの先端が持つ攻撃性と、尖ったカタチと同時に感じる羽根やクッションの柔らかさを比較した時に表れる矛盾が「背中合わせの感覚」となって私を捕らえるのである。
 先日自閉症を伴う障害を持つ方が、苦手な音を遮ったり、掻き消すために自ら声を出す事を聞いた。この身を守るためにする行為は、松下誠子作品のテーマであるセキュリティブランケットや、私が作品を感じた際に表れた「背中合わせの感覚」と同じではないだろうか。この、「背中合わせの感覚」を持ったオブジェが松下誠子の作品「である」と考えたい。

「不良実存」展 ー思考する家ー  ”芸術の社会性について”

 2017年10月8日(日)−10月30日(月)まで、千葉県江見海岸周辺で山田和夫氏が提供してくれたアトリエ兼住居であるEmiスタジオにおいて「不良実存」展が行われた。筆者である私は同じ企画の第一回目「不良」展からの参加であった。展覧会の企画をした倉重光則氏は、東京などの画廊での制度的な空間ではなく、わざわざ時間を掛けないと見に来ることが出来ない場所での展示により、思考を促す「何か」が生まれるのではないかと語っていた。それは、見に来る観客だけでなく、作品を制作する作家にとっても興味深い経験となる。
 第一回目の展覧会の参加作家達7人の打ち合わせのときに私は展示場所である海岸に「何か」を突き立てたくなる衝動に駆られた。それは今振り返れば、人間としての「ここに自分は生きているんだ」という感情がそうさせたのかもしれなかった。そうした作家としての初期衝動に向き合うことが、キャンバスなどの制度の中から生まれるものではない「何か」を発見していくことになる。それは作家本人の問題だけではなく、参加作家同士の思考がお互いに浸透しあい、他者がそれぞれの身体に住み着き始めるといった体験も伴う。
 近代を振り返れば、ピカソなどもブラックと一緒に同じテーマでキュビズムを展開し、どれがピカソでどれがブラックの作品か一見して見分けが付かないほどお互いの思考を共有していた。それは芸術というものが「誰が描いたか」という問題ではないことを証明しようとしているようにも思える。会場を提供してくれた山田和夫氏はセザンヌゴッホも都会から離れたローカルな場所でサントヴィクトワール山や、郵便夫を描いたのだと語っていた。それは、我々は美術館でしかそれらの名画を見ることが出来ないが、その名画が生まれた要因はキャンバスがかつて置かれていた場所から生まれたものだという当たり前のことを想起することになる。
 第二回目の「不良実存」展では16人の作家が集った。サブタイトルの「思考する家」を体現するように周りの海岸や、庭、屋根、あるいは地下、メインの会場空間を含めた全体が共鳴していた。それぞれの作家がそれぞれの場所に触発され、思考や感覚が促されていく。そこには、目に見えない社会性や政治性が含まれている。今回参加してくれた山田葉子氏は、「この場所に来ると素になれる」と言っていた。現代の過剰な情報社会の中で泳いでいる私達は瀕死の重傷である。また山本伸樹氏の作品として海岸に包帯を巻かれた木が横たわっている。傷を癒す行為は福島の原発事故が海岸を通じて語られ、白波の音が循環する海岸で我々をそこに留まらせる。
 展覧会期間中に江見の地元のお祭りがあった。そのお囃子が微かに会場の中で聞こえた。そうした縦の歴史の時間と、同時代を生きる作家同士が作る横の時間が交差していく。生活と芸術という大きな課題も経験することになった。それは山田和夫氏の住居でもある場所で思考し、制作することであった。古い木造の民家を住居兼アトリエに山田和夫氏自らが改築した空間は山田和夫氏の思考や行為が満ちていた。私は毎回江見を訪れる度に先ず到着したら海岸に出て散歩をすることにしていた。それは、体調チェックのようなもので今自分が何を感じて何を考えているのかを見るためだった。海岸には流木や、波によって描かれた砂の模様、どこまでも高い空、江見海岸に点在する岩など、その都度身体が感じるに任せていた。繰り返し打ち寄せる波、水平線、砂浜に残る生の痕跡。そうした自分を超えた時空間に身を浸すと“点”である自らの生が浮き上がる。“点”である私達がしばし場所を定める。“点”でしかない私達が場所を捜し求める行為が作る社会性を“芸術”と呼んでみてはどうか。それは、参加作家達が実際に展示や作品制作にあたり、向き合った「何か」なのだろう。

リンキンパークの音楽 ”芸術の社会性について”

 たまたまラジオを聴いていたら、リンキンパークというアメリカのロックバンドの曲が流れていた。私はこのバンドの知識が全くなかったし、この時もさして気に留めなかった。しかし、時間が空いてスマホで音楽を検索している時リンキンパークのことが思い出されて聴いてみた。Heavyという曲だった。メロディーはポップな感じで、ジャスティン・ビーバーのSorryのような出だし。聴いている内になぜか引き込まれていった。ポップな曲調で最近流行のフューチャリング手法で広がりのある印象だった。とても耳に残ったので、同じ曲で違う動画を繰り返し聴いていた。その内に歌詞の内容が耳に残るようになり、何を歌っているのか分かるようになった。印象的なのは「I’m holding on,Why is everything so heavy」と言う箇所。訳せば、「何とか持ちこたえている。なぜこんなに全てが自分にのしかかって来るんだ」。さらに曲調はポップなのに歌声がとても切実に迫ってくる。そして後から分かったのはボーカルのチェスター・ベニントンが最近自殺していたことだった。
 色々気になり出して他のリンキンパークの曲を聴き始めた。ロックバンドではあるが、様々な手法を試みている。ヒップホップな歌い方をしながら、急にヘビメタのような重いギターサウンドが入って来る。かと思えば、ポップな曲調になり、歌声もポップな印象になる。その後また重いギターサウンドに戻ったり。この目まぐるしい曲の展開を引っ張っているのは、“ある重さ”だ。
 私は、この今まで感じたことの無い感覚を確かめたくて何度も何度もリンキンパークの曲を聴いてみた。頭に浮かんだのは、自分の知っているロックは“これがロックだ”という確信のようなものがあり、演奏している方も聴いている方もそこを共有しようとしている。あるいはして来た。というものだ。しかし、リンキンパークの音楽はロックのオリジナリティを先に感じるのではなく、現代の社会状況にある様々なアイデンティティーを示すための音楽スタイルを並べている印象が強い。特にボーカルのチェスター・ベニントンの歌声がわざとポップな声の出し方をしながら、途中でそれがヘビメタ的に叫び声になったり、ヒップホップな訴える声に変わったりするスタイルだ。これはインターネット時代手軽に様々な音楽ジャンルが聴けることや、且つそのことを様々な人と共有している状況を自分に想起させた。よくあるような、様々な音楽スタイルをミックスしているのとは全く違う。
 試しに自分が好きなロックの曲を聴きながら何が違うのかを感じてみた。そこにあったのは、それぞれの音のカッコよさであり、社会に対して斜に構えるポーズであった。この社会に対して斜に構えるところが若者にとっての砦であり、砦であった。60年代から70年代にかけて、社会が大きく変わり若者の実在がクローズアップされた。今までは、“大人”とう概念しか社会に無かった中で、ロックが若者の存在と若者でしか出来ない社会へのアプローチを知らしめた。そうした大人の社会に対するアンチテーゼがロックの存在意義であった。しかし、インターネット社会がもたらしたものは情報と人が無尽蔵に繋がる事により様々な垣根が取り払われた結果、自我が肥大して大人と若者の区別が不明瞭になっていった。気が付けば、社会という壁にぶつかることで自己を主張していたものが、ぶつかるのは自分だけになってしまったように感じる。
 そうした鬱屈した印象をリンキンパークの音楽から私は受け取った。まだ私はリンキンパークの音楽を消化出来ていない。これから何曲も聴いてみたい。少しだけ、聴いた後に残る感覚が掴めたのは“ある大きさ”の感覚だった。何か大きなものと、ひたすら重いもの。まさにHeavyの曲のようだ。

ブランクーシの公園に行く。”芸術の社会性について”

 有名なブランクーシの公園は、ルーマニアのトゥルグ・ジウの町にある。私はブランクーシの彫刻に対して確かめたいことが沢山あった。その衝動を確かめるべく、飛行機に乗った。最初に首都のブカレストに降り立ち、そこでレンタカーを借りて4時間ほど掛けてトゥルグ・ジウの町へと向かった。途中の町では家の前のベンチに老人たちが腰掛けている姿を良く見かけた。広い通りをどこからか歩いてくる人も見た。全てがゆっくりしているように見えた。トゥルグ・ジウは小さな町である。そのメインの通りにブランクーシの公園がある。公園は二部構成になっていて、無限柱のある公園と、接吻の門、沈黙のテーブルがある公園に分かれている。その二つの公園は通りを挟んで徒歩で20分くらい離れている。
 前日に、泊まった宿の人からルーマニアの歴史について、ブランクーシの公園について少し話を聞いた。ルーマニアはこれまで様々な民族に支配されてきた。それを彼はサバイブという言葉を使って説明してくれた。そしてブランクーシの公園は第一次世界大戦の鎮魂のために作られたと。そして、英語では“Endless column”となっているが、それはルーマニア人としては正確ではないと言っていた。”endless”ではなくて、”nothing end”であると。私は、”終わることのない戦い“と解釈した。また、沈黙のテーブルに関しては、ルーマニアの考え方で生者と死者が出会う場所だと聞いた。
 私は車を止め、先ずは無限柱へと向かった。天気が良く、晴れ渡っていた。なだらかな丘のようなデザインの公園。芝生と砂利道で構成されていて、公園の中心に無限柱はあった。離れたところから無限柱の周りをゆっくり廻った。ギザギザの形の柱に太陽光が当たり、見る角度の違いにより全く違う表情を見せた。シャープな形が持つ二次元性のコントラストと、見る角度によって違う三次元性が頭の中で科学反応を起こす。圧倒される。日本で作品の画像を見ていた限りでは、天まで届く所謂“無限”のイメージを抱いていた。しかし、実際に見ると地面に近い部分と先端部分では形が異なり、造形として完結している。そして重要なのは所謂彫刻ではないのだ。彫刻の定義をすることは今憚るが、ロダン以降彫刻のマッス(量塊)の否定から始まる近代彫刻の延長にありつつ、彫刻の存在論へと向かっている。単純な幾何学的フォルムに対して複雑な印象を見る者に与える。そこに啓示とも取れる感覚が訪れる。私は様々な角度で立ち止まり、線の織り成すコントラストと変わり続ける印象に敬服した。
 無限柱の公園を後にして、住宅街を抜けながら接吻の門と沈黙のテーブルへと向かった。緑の多い素敵な公園だった。ほどなく接吻の門が表れた。無限柱と同じく、単純なフォルムに複雑な印象が混ざっていく。平面的なブロックのような門のフォルムから接吻のモチーフを彫り抜いた形へと視線が誘われる。その表面がとても艶かしい。無限柱は何故か近づかなかったが、接吻の門は近づいて見た。石の肌と単純な形のコントラストが美しい。傍に石の肌を半分残したベンチの彫刻がひっそりとあった。
 接吻の門を抜けて、一人で腰掛けるような形の彫刻があった。そこで気付くことがあった。無限柱のコントラストの強い直線から徐々に曲線が彫刻に表れて来るのだ。何かが繰り返されながら変化していく感覚。しかしそれが何かは分からずに、とうとう沈黙のテーブルにやって来た。石の丸いテーブルの周りに、囲むように丸い椅子が並ぶ。私は眺めながら周囲を歩き廻った。本当に沈黙していた。今まであれほど雄弁に形が語っていたブランクーシの彫刻。ここに来て形は黙っている。見事に黙っている。思考を促すというより、言葉を呑みこんでしまう。
 ここで私は一つ発見したことがあった。テーブルというものは“何か”を置く台である。当たり前だ。しかし、そのテーブルのフォルムがブランクーシ特有の彫刻の台座のフォルムと同様だったのだ。それは先ほど触れたブランクーシが放つ、彫刻の存在論と重なる。私が確認したかった沈黙のテーブルの作品画像のテーブルの表面や椅子の表面に見た、天に向かっているような感覚はそれだった。そういえば、接吻の門の傍にあったベンチの表面も同じ感覚だ。
 最後に、これが最も大事だが、ブランクーシの作品に触れて感じたことは、ルーマニアを訪れて、見たり触れたりしたことが見事にブランクーシの彫刻で繰り返されているのである。みんなが座っていたベンチ、庭先で良く飼われている鶏、ブロックを積み上げて作るルーマニアの建築。私にはブランクーシの彫刻はルーマニアの日常そのもののように思えた。