熊谷守一の不思議なカタチ。−芸術の社会性について−

 東京国立近代美術館熊谷守一展を見に行ってきた。有名な、あの赤く縁取られた輪郭線のカタチの不思議さを確かめたかった。熊谷守一は、いつからあの独特の感覚を得たのか。先ず目に入ったのは、「轢死」と題された作品。1908年(明治41年)制作。女性が自殺した現場を偶然見かけた熊谷守一が描いたとされる。元々暗い色で構成されていたためか、現在はほぼ真っ黒な状態だった。わずかに見えた横たわる女性のモチーフが印象的である。次に私を捕らえたのもやはり死のイメージだった。「陽の死んだ日」という作品。息子の陽が高熱を出して死んでしまい、何もしてやれない熊谷守一は息子の死顔を描き始めた。熊谷守一の言葉に「次男の陽が四歳で死んだときは、陽がこの世に残す何もないことを思って、陽の死顔を描きはじめましたが、描いているうちに“絵”を描いている自分に気がつき、嫌になって止めました」この「“絵”を描いている自分に気がつき、嫌になって止めました」の部分が強く脳裏に焼き付いた。
 熊谷守一と言えば、簡略化された線と色彩で構成された達観したような作風で知られている。晩年の庭先の蟻や蝶々などの小さな世界に生命を託しているイメージがある。国から貰うはずだった勲章も受け取らないなど、世捨て人な印象もある。そうした熊谷守一の作家としてのスタンスが私を強く惹き付けた。私は展示作品を見ながら、いつあの「不思議なカタチ」が始まるのか目を凝らして一点一点睨みつけていた。それは一枚の風景画に見つけることが出来た。「高原の道」という作品。どこかの山へ登る途中の高原の道が描かれた作品。その絵の中に描かれている岩に「不思議なカタチ」を発見した。「あった!」と思わず私は心の中で言った。ゴロっとしているはずの岩が、輪郭だけの存在になり、中がベタッと塗られている。また絵のタイトルになっているように、遠近法としては奥に行くはずの「道」が立ち上がって来るように見える。この絵から何かが始まっている。熊谷守一はまだ無意識であるだろうが、何かを掴んだように見えた。
 では、それは何か。熊谷守一は生涯様々なモチーフを描いた。裸婦、風景、静物、身の回りのもの。私にはそうした熊谷守一の、「世界の全てを同時に感じる」感性が絵を描かせたのではないかと考える。初期の実験的な暗闇で描かれた自画像などは、光と影で陰影を作り世界を対象化していく洋画に対する挑戦ではなかったろうか。また死のモチーフは古今東西あるが、熊谷守一は生死を越えた「のっぺり」した世界を無意識に探していたのではないかと推測する。前述した「高原の道」以後、積極的に風景画に挑んでいる。しかし、美しい風景を探しているわけではなく、「何でもないもの」を探すために山を登り、海岸に出掛けている。
 このころ、熊谷守一の色彩に変化が出ている。それは、彩度と明度(鮮やかさと明暗)の違いを上手く使い分けて画面の中の色が出たり入ったりしているのが確認される。そして山や海、空、岩のカタチの輪郭線が強調され、区切られた中のカタチはベタッと塗られている。画面の効果としては、空や岩が同じ次元で描かれているように感じられる。また展示されている資料のスケッチに、塗り絵のように何色を塗るのか明確に下書きがされている。これは、当時の一般的な洋画の常識にあった絵の具を塗り重ねる中で作品を「制作していく」というスタンスとは全く異質のものである。
 なぜそんなことをしたのか。他のスケッチでは人物の顔が「一筆書き」で描かれているものがあった。そのスケッチの完成作品は、一筆書きで描かれたカタチを一部区切って「顔だと分かる」ように描かれている。このように、様々な実験を繰り返しながら熊谷守一は世界を「一つのもの」として捉えたい衝動に突き動かされていたのではないか、と思われる。熊谷守一は徐々に絵のモチーフそのものに「何でもないもの」を求め始めた。「雨水」「土塊」「焚火」など。普通は描かないものだ。しかし同時に、モチーフに「答え」を求めて安住することはせずに、わざと一般的な裸婦を描いて自己を検証する姿もある。私はこんなにも己に厳しい作家の姿勢に、一枚の絵を見ただけでは分からない「生き方」の時間を見た気がした。