反実体絵画

 自分の作品を説明する言葉を昨日から考えている。以前考えたものでは「見えない広場」「存在の余白」「見ることを見る」「描く事を描く」「忘れられた痕跡」など今考えると不可視なものばかりであった。私は作品を作り始めの頃、人はどのように形を認識していくのかを考えていた。0から1へと形が生まれる過程をイメージしていた私は、子供の頃遊んでいた積み木を思い出し、ユニットである形と形がくっついて形が生まれる当たり前のことに驚き、また出来上がると積み木を壊していた子供の頃の自分に何か真理の様なものを感じていた。しかし、それが実制作の美術の場でどういうことなのかは分からずにいた。それはイメージとしての絵画ではない何か別のものを頭に思い描いていた。
 タイトルの「反実体絵画」という言葉はそれほどオリジナリティがあるわけではないけれども、自分の作品を説明するのに都合がいいのではないかと思う。なぜこの言葉が浮かんだかと言うと、先日知り合った画家から展覧会のパンフレットを貰って作品写真を眺めていたところ、自分と同じように(自分にはそう思われた)”見るためだけの絵画”という抽象性の高いコンセプトのものだった。しかし自分と違うのは彼が絵画という実体を前提に作品を作っていることだった。それは絵画という実体があって、Aという絵画があるが、私はBという絵画を描いているという構造で作品を作っている。
 それに対して自分は実体としての絵画ではなく、作品を見ている人の頭の中に絵画が生まれていくという構造を持つ。見ることの中からしか生まれない絵画。それは言語学者ソシュールにならって言えば言葉や事物は差異の中にしかない(実体を認めない)というのと同じように、絵画作品の中にAではないBを探しても見つからず、差異の戯れとしての知覚に翻弄されるばかりなのである。






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