図と地の問題

 ずっと私が追いかけている絵画の問題として、図と地の問題がある。要するに認識する対象と背景の関係のことである。これは当時精神的に困窮していて、絵を描かざるを得なくなった時に感じた感覚に端を発している。それは私が社会と折り合いが付かなくなり、居場所が無くなり、私の存在が危うくなった時に、とにかく自分を確認したくて絵を描いたことがあった。
 その時、一枚の紙だった物が突然線を描いた瞬間、”私の空間”に変化した。私は驚いて自分の中身がドロッと出たような気がした。一枚の紙はそれまで皆と同じ空間に存在していたのにも関らずに線を描くことによって私の内面と強く繋がったのである。それから私はこの驚きに取り付かれ、現実空間に存在している支持体と意識の延長である描くことの関係性を表現してきた。対象物として何を描くかが問題ではなく、描く事自体の状況を描こうとしていた。それは言葉にすると「描く事を描く」であった。支持体は合板が多く、合板の物質性、現実性が必要であった。それはまた表現の問題として、表現性をゼロに近づけることによってどこからが絵画なのかを見極めたかったのである。
 最近少し意識にずれが生じてきている。支持体の物質性が作品の半分を占めていたのに対して、支持体を絵画の制度であるキャンバスに切り替えた。これは所謂絵画へ回帰したのではない。私の中で否定していたイメージを作品に呼び込み、作品の物質性に依存せずに、図と地の問題を描く事自体ではなく、イメージへとスライドさせたのである。具体的にはキャンバスに色が塗られ、色面に図のようなものが描かれている。否定していたイメージを呼び込むことは、改めてイメージと「見ること」の関係を探って行こうと言うものである。イメージと「見ること」の関係を探りながら、色彩がイメージを喚起する間際を捉えようとする。それはイメージの知覚を宙吊りにし、図と地を交互に知覚させることにより、軽い明滅状態になるのである。認識は出来ないが、感覚していること。認識出来ない不安感と感覚している充足感が入り混じる。
 ここで、話を図と地の問題に戻す。まず絵画の在る風景、空間を想像してみる。先に書いたように、認識する対象としての絵画が在り、背景としての展示空間があるとする。そこに当然居るはずの鑑賞者の存在を足してみる。すると当たり前のことだが、鑑賞者の視点がなければ作品は成立しない。私は鑑賞者の視点を絵画作品の構成要素として考えている。
 話は先日書いたソシュールの話に繋がるのだが、言葉や事物は差異の中にしかないとすれば、絵画作品が成立するためには差異を感じる(展示空間と絵画の差異も含めて)鑑賞者の中に絵画作品が立ち上がらなければならない。しかしそれはおぼろげであり、掴み所が無い。

 


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