ジョルジョ・モランディの絵画の社会性について

 先日東京ステーションギャラリーにおいてジョルジョ・モランディ「終わりなき変奏」を見た。「終わりなき変奏」という名の通りテーマは同じだが少しずつ違う静物画や風景画を生涯追求した画家の展覧会であった。時代はピカソとブラックがキュビズムの活動を開始した時期であり、モランディも影響されたようだ。モランディはそこそこ売れていた画家であったが、華美な世界には興味がなかったらしくひたすら自分の仕事に打ち込んでいたようだ。
 その仕事のメインであった静物画に登場するモチーフが所狭しと画家のアトリエの棚に並んでいる写真が展示されていた。花瓶や水差し、飾りのようなものなど、埃を被った状態で静かに画家の眼差しを待っていた。それらのモチーフは画家の愛用品といった趣ではなく、ただ具体的なものとして佇んでいた。
 実際にモランディの絵画を見た感覚を言葉にしながら表題にある“ジョルジョ・モランディ絵画の社会性について”書きたいと思う。まず静物画というと一般的には果物や金属の食器が並んでいて、その物体の存在感が描かれている。当然食器と果物の質感の違いがきちっと描かれていて本物らしく描かれているのが一般的だ。モランディの静物画は本物らしさよりもモノの佇まい、ありようが描かれている。ただしトリッキーな印象もあり、瓶と瓶の輪郭が重なっていて立体表現をしているのに関らずわざわざ平面的に見えるように描かれているものもある。また普通は立体感を強調するためになるべくモノ同士がテーブルなどにデコボコに配置されるが、モランディの世界では瓶の底の部分の位置を横位置で揃えることなどによってそれぞれに違うモチーフが不思議な統一感を持ち、且つ違いが表現されている。それぞれの類としての、食器であることと果物であることの違いではなく個としての佇まいやモノの並び方によって印象が違う“感覚の違い”が表現されている。
 展覧会はいつしか間違い探しのようなモランディのどれも似たような絵画作品に翻弄される。それはしかしつい我々がこの絵は何が描いてあるのだろう、とかどんな意味を画家は伝えたいのだろうという答えを求めてしまいがちなことに原因の一つがあるのかもしれない。そう思うと、モランディの絵画作品を見ている時に感じている「感覚自体」が作品の見方なのかもしれない。
 私はここでこの“感覚の違い”というモランディの作品のテーマに一つの社会性を感じることは出来ないだろうかと考えた。人間は一人一人違うアイデンティティを持っている。生まれも育ちも違う。感覚も違う。そういった人間が集まり、時に寄り添いながら、個と個が関係しながら人間は生きている。そういった関係性が社会の原点であると考えたい。既存の社会を糧に我々はまずは生きているが、常に個と個の新しい関係性による未来に向かって生成する社会をイメージしながら明日の社会を共に作らなければならないのだろう。
 モランディの静物画に出てくるモチーフのそれぞれの佇まいの違いのように我々はそこに存在している。しかし、その存在は個々にばらばらに存在(類として)だけではなく、類を越えて、個と個の関係として存在しあっているのである。
 モランディの絵画は一般的には孤高の作家として分類されているが、しかし良く見ていくと孤高であるがゆえの社会性が見えては来ないだろうか。