トム・サックス展を見た。 

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 初台のオペラシティでトム・サックス展を見た。ティーセレモニーと題された展覧会。アメリカに居た時、友人が日本のお茶の席をそう呼んでいた事を思い出した。身の周りにある素材を使いながらの作品は、日常の写し絵のような様相のある雰囲気を感じた。作品を見て行きながらNASAの文字が目に留まった。なるほど。お茶の小宇宙とアメリカの宇宙への夢とは案外比較すると面白いのかも知れないと思った。その後もそのアイデアは継続されていて、トム・サックスからすれば、日本の文化そのものがティーセレモニーのように感じるのだろう。文化の要約というのはある種の飛躍を生み出すのかもしれない。中には、禅を思わせる仕掛けや、鯉の泳ぐ池と、ししおどし。その全てが書割のような掘っ立て小屋のような作りになっている。またところどころ、NASAの文字やアメリカ文化との融合が図られている。もちろんこうした文化比較は各々の文化の代表例であってある種の比喩と捉えるべきであろう。

 ここである種の想念が湧いた。先日ふとトランス状態と自分の事に酔うことの違いを考えていた。古くから行われている文化儀式の中に多くのトランス状態を呼び込む装置が散見される。それらは自我を超越し感覚を開放し、認識を否定し、神と近くなる状態を作り出す。言わば、宇宙化することだろう。トム・サックスはユーモアも交えながら自分の国の文化であるNIKEやMcDonal’dやNASAと日本の文化を平行に並べてみせる。アメリカ文化に慣れ親しんでいるはずの日本文化が、改めて宇宙という概念で文化を比較していく。所謂「侘びさび」の世界とはトム・サックスのような身の周りのもので宇宙を体現する方法論のようなものだろう。私が注目したのはそうした能書きよりも、人間の欲望をあくまで追求することで生まれてきたアメリカの資本主義社会の宇宙観と日本のある枠組みの中で熟成する小宇宙の比較から見えてくる文化のトランス感覚の差異と同一性である。宇宙に飛んでいくのも、お茶でトリップするのも同じ「飛ぶ方法」ではないかとも思えてくる。そうした感覚がアメリカに端を発するあらゆる消費欲求に根差す我々の日常を逆照射していく。

 前述したトランス状態と自分に酔うことの違いは、実はそんなに明快な違いがあるわけでは無い。もちろん儀式としての社会形式の中で行われる場合と個人的な欲望を一緒に考えるのは野暮ではある。しかし、本人にしてみれば常に内省が求められる場面だ。文化とはあくまで人間が作り出したものではある。だが、神や宇宙に近づこうとする時、一旦欲望は担保される。トム・サックスの、まるでプラモデルを作り出すような芸術行為は我々の欲望の写し絵であり、かつまたアメリカや日本という限定した範囲の問題を超えた普遍的な問題を露呈している気がする。

 トム・サックスの作り出す空間は、理解する糸口が沢山あるが、答えに辿り着くような目印は何も無い。私は現在の混迷した世界状況や日本の状況を見るに付け、何故こんなにも芸術を求める必要があるのか、どこにその理由があるのか知りたくてトム・サックスを見に行ったが、そうした答えの無い問い掛け自体が芸術なのかもしれないと少し思った。ともすれば欲望すること自体が神聖視されてしまう時代であるから。