バックミンスター・フラーの世界  -芸術の社会性についてー

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先日放置していた歯痛を治しに歯医者へ行った。そこに偶然テンセグリティ(宙に浮いたように見える構造)の模型が置いてあった。調べると、アメリカの彫刻家ケネス・スネルソンの作品に使われていた引張力と圧縮材の構造に、テンセグリティ(張力+統合)という名を思想家であり、発明家であるバックミンスター・フラー(1895-1983)が名付けて発展させたもののようである。このテンセグリティから展開させて、一般的にも有名なトラス構造の巨大ドーム(博覧会の会場などに使われた)や、Dymaxion CarやDymaxion Houseなどの工業製品を第二次世界大戦後、自ら開発した。しかし量産には至らなかった。Dymaxionとは、Dynamix+maximum+Tensionの造語である。

この圧縮力と張力がバランスを保つ構造はそれ自身で自立する構造を持っている。丁度雨傘のような構造である。他と接することなく構造を保つことから、宙に浮いているような印象を持つ。現代では人体の構造自体がテンセグリティの構造を持っているのではないかと注目されている。フラーは地球全体を「One World」と呼び、地球を一つのものとして捉えることで最小限の力で一人一人が皆のために力を出せるのだと考えていた。これは、現代において有限である地球資源の問題を抱える我々に直結した話でもある。

当時や現在のフラーに関する動画を見聞きしてみた。第二次世界大戦後という時代もあると思う。飛行機に着想した機能的でエコロジカルな自動車と住居。実際に現代の人が自動車を操縦する動画を見たが、とてもスムーズに走行しているとは言いがたがった。住居に関しては博物館に展示されたものを見学する動画を見てみた。丁度モンゴルのパオのような構造、見た目は未来的で宇宙的。アルミニウムで覆われていて真ん中の柱からの張力で住居全体が支えられている。窓がぐるっと住居の壁に帯のようにあり、壁伝いに廊下があり、各部屋に繋がっている。住居に関しては、アメリカでは一般的なトレーラーハウスが構想として受け継がれているように思われた。移動可能な住居。環境と一体化するイメージ。

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エコロジカルな構造はこれから注目されるだけに先駆的な発想ともいえる。フラーの造形である、巨大ドーム、自動車、住居など、そのテンセグリティを内に持つ構造はいかにエコロジカルなのであろうか。近代から現代に掛けての造形とどこが違うのであろうか。モダンな造形と言えば、コルビジェに始まるモジュール化された立方体の積み重なりの建築がある。超高層ビルは、その展開である。コルビジェ自身はもっと有機的な発想で身体をモジュール化したのであるが。そうした近代産業に着想した垂直性の高い造形が典型である。それに比べてフラーの造形は丸くそれ自身で独立しているような印象がある。

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私は思想としての造形が、もっともフラーをフラーらしく理解できると考える。もちろん数学的にもフラーの造形は魅力的であり、まだまだ可能性を秘めている。しかし今我々に何が出来るかと考えるとフラーの思想としての、全てが全てに関係しあっている包括的な構造を我々人類という生物はすでに持っているというアイデアがもっとも現実的な感じがする。我々は争うことで文明が発展してきた。しかし、地球と争うことは人類自らを滅ぼすことになりかねない。そういうところまで来てしまっている。フラー自身が多面体の造形と共に映る写真を沢山見かける。その最小限の構造が我々一人一人であり、また周りの他者との繋がりが全体の人類を表しているのであろう。人類が地球と力を合わせるのはいつの日であろうか。

人と作品 -芸術の社会性について-

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横浜のあざみ野スペースナナで行われている「ココロはずむアート展」に行って来た。106人の障害を持つ方の作品展。今回自分の中で、“人と作品”というテーマで彼らの作品を見ようと思っていた。展覧会では「作家カード」と言われる、制作した作家を施設の職員が紹介する一文が作品と共に展示されている。何故自分が“人と作品”というテーマをわざわざ作って展覧会に臨んだかを説明しておくと、所謂現代アートの世界では「作家」という存在は一度死を迎えているからだ。誰でも知っているピカソゴッホの時代から作家とは誰なのか何なのかを芸術家は世の中に問うてきた。それまでは宗教的な画題があり、それを芸術家が個人で表現し、また工房で弟子による制作が行われていた。言わば、画題が主体でありその後ろに制作者がいた。観客も画題を見るのが習慣となっていた。しかし近代以降作家が主体となり、宗教を離れた個人とは何なのかが芸術家の仕事となっていった。それが現代に近づくにつれて、制作そのものが主体となり、芸術作品は社会化されていく。

そうした時代的な背景も頭の隅に置きながら、今回障害を持つ方の作品に接していった。その中で印象的だったのが、作家を紹介する顔写真と作品の絵が全く同じものが幾つかあって驚いた。笑顔をこちらに向けている写真とイラストの表情、特に目の表情が同じだった。しかしそれは一部の作品であって全体では無い。他に印象的だったのは刺繍の作品で、丁寧に一針一針縫われた線画のような模様は作家の息遣いが聞こえて来そうな作品だった。またパラダイスのような風景が広がる作品もあり、作家カードに記された明るい人柄が表現されていてなるほどと思って見ていた。総じて見ると、“人と作品”は非常に似通ったものであることが分かった。そこには106人分の魂が存在しているのであった。

以前ピカソゴッホの絵を、描かれた目を中心に論評したことがあった。その時は眼差しが問題となりピカソの現実を鋭く見る近距離な眼差しと、ゴッホのあくまでも自身の内面に向けられた眼差しを見つけた。より丁寧な分析を障害を持つ方の作品一つ一つに向けるとまた違った層が見えて来るだろう。一般的に障害を持つ方の作品に向けられた「純粋さ」や「素朴さ」を見る見方は一方にある。しかし一人一人に寄って見ると作品も人も変わってくるのかもしれない。我々は永遠に人をカテゴライズし、その人を理解することは出来ない。

話は飛ぶが、自分自身施設で働いており障害を持つ方の展覧会を通じていつも学ぶことが多いと感じている。今回の「ココロはずむアート展」の期間中のイベントで「作家を語る、作家が語る」というものがあった。制作者が会場で自身の作品を説明し、突然制作を始める人もあった。観客は作品の秘密を聞けるまたとないチャンスであり、障害を持つ方は自身や作品が注目されることが励みになっていると聞いた。この時感じたことは、見る人と見られる人の関係だった。作品は人が作る。それは見られたいという欲望に支えられている。最初は衝動的に制作していたものが人の目に留まり、注目されて自信が付く。そしてまた作る。“人と作品”とは切っても切れない関係なのではないだろうか。もちろん美術として作品を楽しみ、また社会化することはあるだろう。人はそのままではいられない。誰かとコミュニケーションを取って生きている。そこに作品が媒介となるのである。

 

環境と作品 -芸術の社会性について-

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 環境について社会が関心を持つようになって久しいが、環境と芸術の関係はどうなっているのだろうか。作品から考えてみる。環境芸術という概念を持った作品が60年代末にアメリカ中心に主に彫刻という形で現れた。その先駆者には機械文明を環境と捉えてアイロニカルに表現したスイスのジャン・ティンゲリーのキネティックアートや、アースワークと呼ばれるロバート・スミッソンのようなスケールの大きい自然環境を造形化したものがある。他にもアンディ・ゴールズワージーのように、自然の中で自然と関係を持つこと自体を作品化し、空中に乾いた泥土を投げ上げる行為を作品にしているものなどがある。それらの環境的作品は、観客の意識を芸術家の内面では無く、外側の世界へと向ける傾向がある。芸術家は元来、世界と人間の媒介者として古今から存在しているが、そうしたシャーマンとしての役割が人間の内面を映す存在から外面を映す存在へと変化していったのかもしれない。

 以前取り上げたロイス・ワインバーガーという芸術家は、自らをグリーンマンと名付けて正にシャーマンとして詩的に、また政治的に芸術と自然の関係について根本的に問い直した。ここまで書いて来て今まで上げて来た芸術作品に共通するのは、何か中心を持った造形ではなく周りとの関係の中で成立していく芸術行為だということである。キャンバス絵画という欧米文化が開発した自らを映す鏡としての造形ではなく、観客と芸術家が共有する場自体を作品としていくのである。また美術史として前回取り上げたコンセプチュアルアートも、大きな意味で言語(概念)という“環境”を問い直しているが故に社会性を持った広がりのある作品形式となっている。

 もう一度一般論としての環境という言葉について考えてみる。地球という環境を人間との関係で考えるようになったのは経済一辺倒で、地球を資材としてしか今まで考えて来なかった人間のエゴイズムへの反省がある。有限である環境に対して地球への人間の侵略を意識した現在、我々芸術は何をすべきなのであろうか。芸術の自律性を謳ったモダンアートは歴史の途中で挫折している。近代以降宗教芸術という権威から離れ、ヒューマニズムという人間中心の理想概念が、限界に来てしまっている。イギリスのテートモダンで発表したオラファー・エリアソンの「沈まぬ太陽」はそうした人間の自然へのエゴイズムを見事に表している。環境哲学者であるティモシ―・モートンは、哲学にとって社会のネガティブなことをあげつらうだけの仕事はナンセンスだと語っている。一見楽観的とも取れる、一日を穏やかに暮らそうとする瞑想的なティモシ―の発言は、お互いを攻撃することで安心する我々現代社会への反省とも取れる。インターネット社会である我々の環境は最早他者が見え辛くなって来て、人間のエゴイズムを加速させてしまっている。これは、先の環境問題を長い人類史の中で作って来た我々人間のエゴイズムの最終課題なのかとも思えて来る。先日オラファー・エリアソンとティモシ―・モートンの対談動画を見たが、一種の「優しさ」が漂っていることが際立っていた。オラファー・エリアソンが語るinvite(招待する)やopenness(開かれていること)やnowness(現在的)は芸術家という中心ではなく、芸術作品に接した様々な多様な観客がそれぞれに作り出すイメージが社会や日常に戻ってどんな変化をもたらすのかということなのである。環境と芸術作品とは、「私と周り」を問い直す媒介ということになるのだろうか。

コンセプチュアルアートについて -芸術の社会性について-

     

 


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芸術の形式の中にコンセプチュアルアートというものがある。元を作ったのはマルセル・デュシャンの既製品を使ったレディメイドという概念を持った作品群だ。デュシャンは、視覚芸術に対して新しい提案をした。それは既に我々の身の周りが芸術なのではないかという、何かを制作する前の段階(生きていること)を示唆した斬新なアイデアを元にした作品だった。視覚芸術は、目と手を使い非日常を作り出すことを信念としてきた。しかしデュシャンは、印象派セザンヌキュビズムに影響される内に視覚のイリュージョン(彼の言葉である網膜絵画)ではなく、別のビジョンを視覚芸術に求めることだった。有名な作品に、男性便器を横にしてR.Muttとサインした「泉」という作品がある。これは有名なアングルの「泉」をモチーフにして、人々に意識の変革を迫った作品である。この、既に我々の身の周り(男性便器)が芸術であるという発想は突然出て来たものでは無く、ルネッサンス以降近代の芽生えの延長として必然的に出て来た芸術形式でもある。ルネッサンス以降芸術は「個人」をアイデアの源泉として、社会との関係を探って来た。そうした中で芸術家自身が作品を制作すること自体を疑問視してきたことは、現代に於いてもまだ理解されているとは言い難い。昨今アートという言葉が溢れているが、制作すること自体をアートと名指し社会化を図る流れに非常に政治的なもの(アートは良いものという価値付け)を感じる。

しかしその準備をしたのもコンセプチュアルアートなのである。コンセプチュアルアーティスト達は、社会的な意識を持った制作が多く、我々が生きている地平そのものを作品化しようとする目論見がある。後に社会的影響として「何とかアート」など人と人を繋ぐ材料としての方法となっていったことは皆の承知することだろう。アートは日常的には政治の道具になってしまい、政治(民主主義的な)そのものとは縁遠いものとなってしまった。では、コンセプチュアルアートとは何であって、その前の芸術とその後の芸術とどんな関係にあるのだろうか。歴史に残るコンセプチュアルアートの作品を辿っていくと、一応に自我を否定した作品が多い。コンセプチュアルアート以前に価値とされていたオーラという概念が「近代的自我あるいは自己」と重なり、長らく近代の芸術家を悩ませて来た。背景に個人のエゴが何か神秘的なオーラを発すると社会が信じて来た歴史がある。

一方で個人を突き詰めることは、やがて非個人や反個人となって様々な作品を生み出してきた。自我や自己を否定することは、もちろん政治的なファシズムを生み出す可能性だってある。しかしコンセプチュアルアートの作品群がファシズムと正反対にあるのは、個人を優先し、権力を嫌うからである。一種のアナーキズムである。個人はあくまでも弱い。しかし未だにアートはビジネスとの関係が切れずに芸術作品を多額の投資として考える社会は無くならない。

私は芸術の役割は個人と社会を照らし出す光だと考えている。今回取り上げたコンセプチュアルアートという芸術形式にはそうした光をカタチにする力があると思う。個人という弱くて強い存在を社会が共有する日はいつになるのだろうか。

セザンヌとジャコメッティ -芸術の社会性について-

 

 

        

 

 

 


                      

  

 


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画家ポール・セザンヌと言えば風景画と静物画で有名である。また、彫刻家アルベルト・ジャコメッティと言えば細長い人物の彫刻が有名だ。今回は一見違うが似ている二人の芸術家を比較してみたい。画家と彫刻家、ジャンルは違うがジャコメッティセザンヌを非常に意識していたようだ。何故だろう。画家セザンヌは、印象派に影響されながら作品は人間の顔をゴムまりのように描いていると批判されていた。妻の顔さえも。しかし彼の画業は人間の感情や表情を表現することでは無かった。絵のテーマは必然的に静物と風景が多くなっていく。彫刻家ジャコメッティはどうであろう。シュールリアリズムやキュビズムに影響されて抽象彫刻を制作するが、断念する。代わりに具象彫刻である人物に没頭していく。時代に影響されながら、独自の視点を持つ点が二人に共通している。

ジャコメッティは、「私の現実」というコンセプトを元に自分に見えているままの現実を捉えたいという衝動に突き動かされ、生涯を芸術に捧げた。その方法として、モデルの人物に何時間もポーズさせて執拗に自分に見えている現実を捉えようとした。朝はモデルを見ながら。夜はモデルを思い出しながら制作した。このアイデアは画期的である。何故なら、想像の中で制作することと、現実を目の前にして制作することの違いを追求しているからだ。これは一見単純であるが、「見えたまま」というある種の感覚の受動性がテーマになってくると、現実と非現実は境が曖昧になるからである。

一方で、セザンヌは何故ジャコメッティにそこまで影響を与えたのだろう。両者の共通点は「あるがままの存在」ではないかと考える。セザンヌは「存在の問題」を絵画に求めるべく、人間の感情や表情を脇に置いて、自分に世界がどう見えているかを執拗に追求した。区切りの無い自然の風景に魅了されて、空と山、木々と家々、山と湖など目の前に広がる空間をテーマとした。また静物画では、静物が空間に置いてある状況だけを描くことで物の「存在」に迫ろうとした。ジャコメッティセザンヌにとっての「見えたまま」「あるがままの存在」が、どのような方法で追求され、また共有されたのであろう。

一つ考えられるのは、「距離」の概念である。距離はジャコメッティのキーコンセプト(ジャコメッティは自身の芸術に対して多くの言葉を残している)でもあるが、人物画あるいは肖像画というジャンルにおいて通常距離という概念は必然ではない。しかしジャコメッティは、モデルが正にそこに居合わせている現実を距離の概念からアプローチしたのかもしれない。またセザンヌにとって、風景画に内包される距離(近景、中景、遠景)自体をテーマにすることが、全てを“印象”(impression)に帰する印象派から袂を分かつ要因になったのかもしれない。セザンヌの風景画や静物画にある、目の前に生起するような存在感は、画家と対象物との絶え間ざる現実確認なのである。この一見違う二人の芸術家のアプローチが「距離」の概念を通じて呼応していくことは興味深い。

我々現代人は様々な距離(心理的距離、物理的距離)を克服して、近代を立ち上げて現代の自己的生活を手にしてきた。しかしインターネット社会を経験して、距離の概念に揺らぎが出ている。我々が持っている通念としての風景や、人物(他者)、情報は今どんな揺らぎを持って我々の目の前に表れているのだろうか。絵や彫刻を単なる非現実的な表現された物体として見るのではなく、「現実を見る装置」として見直すこと。現在におけるインターネット社会ではびこる人間の脳と現実の関係が見直せるのかもしれない。芸術とは本来そうした社会性を孕むのである。我々にとって「距離」とは何か。人間関係、社会、自然...

ボイス+パレルモ展 -芸術の社会性について-

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ボイス+パレルモ展に行って来た。ボイスとはヨゼフ・ボイスのことである。「人は誰もが芸術家である」と現実の民主主義社会を社会彫刻に見立て、芸術概念の拡張を問うたドイツの芸術家である。パレルモとは、ブリンキー・パレルモである。ボイスの芸術アカデミーの学生でボイスの愛弟子であった。パレルモは若くして亡くなっており、作品点数も少ないがそのシンプルな造形と、ボイスの一見複雑に見える作品世界との共通点を探ろうと今回訪ねた。

展覧会は埼玉県立近代美術館で行われていた。会場を入ってすぐにボイスの動物をモチーフにした作品群が目に入った。ボイスは、作品を見る観客を前提に制作する人なのだと改めて思った。その理由は、身近な素材を用いりながら世界を神話的に捉えさせて、我々の今生きている現実を相対的に皆に考えさせる。モチーフの動物は鹿、ウサギなどである。またフェルトや、脂肪、そり、電球など。これらのモチーフは、ボイスの世界にとって生命の営みを象徴するものである。動物と人間の関係、そこにある生の営み。先の「誰もが芸術家である」とはボイスが「私はこう考えるけど、君はどう?」「君ならどう考える?」と問われているという意味でもあるだろう。また、繰り返し使われる限定した色使いがある。血を連想させる赤茶色がボイスカラーであり、また良く使う素材のフェルトの鼠色。会場にはフェルトのスーツや、グルグル巻きのフェルトの壁作品があった。また、ジョッキー帽に詰め込まれた脂肪や、レモンに黄色い電球がくっついた作品など。それらは、色彩というよりは固有色を明示している。ボイスにとっての生命(エネルギー)の色なのだろう。生命という現象を作品というモノを介在して人々に生きることそのものを問いかける。

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対してパレルモの作品。所謂ミニマルな抽象絵画。シンプルで無駄がそぎ落とされた作品。今回展示の工夫として興味深かったのは、作品のキャプションに作家名が書いていないことである。最初にボイスの作品が現れて、次の部屋にパレルモの作品があるのだが、習慣で作品キャプションに作家名を探すが無い。よく見るとボイスのB、パレルモのPが示されて作家が分かる仕掛けになっていた。これは二人の作品に共有されているテーマを、観客自身が探していくという展示側の意図によるものだと考えた。また、パレルモの作品はあまり日本では知られていないので、展示のバランスも興味を引いた。ボイスは有名であるが、控えめに展示されていて、寧ろパレルモがメインではないかと思わせた。

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パレルモは、絵画の問題をストレートに追求した芸術家であった。絵画の問題とは、何が描かれているかではなく、絵画の存在意義を問う仕事である。しかしその仕事の厳しさの反面、情緒豊かな感覚を見る人に感じさせるのである。私はそこに、とても惹かれた。シンプルで厳しくありながら、暖かい。そして画家の手の跡というよりは、制作者の手の跡を感じさせる造形であった。あるいは身体の跡というのか。作品を見た時に強く感じた印象は、その存在感だ。アメリカのミニマルアートのように巨大さから来る存在感ではなく、ふとした感覚。会場の最後に設置された小さな連作はドイツからアメリカに渡ってからの作品で、厳しさに拍車が掛かった緊張感のあるものだった。A4サイズくらいの小さなアルミ板に筆の跡を強調した絵画。ついさっき描かれたような感覚に襲われ、会場の出口にありながら去りがたい気持ちにさせられた。後ろ髪を引かれるというのか。その会場の出口にボイスのレモンライトと呼ばれる、レモンと電球がくっついた作品がパレルモの作品と共にあり、「生の営み」という二人の共有したであろうテーマが仄めかされていた。情報社会で見えなくなっている我々の生を振り返る良い機会でもあった。

ファーレ立川へパブリックアートを見に行く(2)。 -芸術の社会性について-  

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二度目の来訪であるファーレ立川。前回は街中にアートが存在していること自体が自分の関心の中心であった。立川駅の米軍跡地に建てられた都市計画の中に溶け込むように存在するアート。昨今の地方のビエンナーレなどの芸術祭の先駆けになるパブリックアート。今日は長澤伸穂の作品、トンボヒコーキから見た。街路樹を守るツリーサークル呼ばれる鉄の鋳物には、トンボがヒコーキ(爆撃機)に徐々に変わるアニメーションが円状に記されている。しかし、円環の中でヒコーキ(爆撃機)はトンボにはならない。これは、かつてトンボが飛んでいた立川に日本軍の飛行場が出来て、戦後米軍の基地となった経緯が記されている。私は街路樹の根元に視線を落としながらかつてと今に想いを馳せた。見上げると、立川の今が現れた。

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街中にアートが存在することに慣れた私は、より作品に近づけるようになったような気がした。次に気になったのは、ジョナサン・ボロフスキーのブリーフケースを持つ紳士の大きな像。厚い鉄板で作られていて、細長いその影のような紳士は寄る辺なくそこに立っている。とても静かな印象の作品。足元に数桁の番号が記されている。アノニマスな我々一人一人のポートレートのようでもある。都市という、労働に組み込まれた空間で彼は何を思うのであろうか。そのすぐ近くにアニッシュ・カプーアの山をかたどった鉄の彫刻があった。見る角度によって山の形は無限に変わる。裏側に周って見たが、張りぼての裏側のようで面白かった。実際は大きな自然を様々な角度で示すカプーアの作品。都市の人工性との対比が興味深かった。

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しばらく進むと、ジョセフ・コスースの言葉の作品があった。案内が書いてある地図で追わなければ作品がそこにあることは誰にも分らないであろう。そうした意図も展示プランを担当した北川フラムの狙いであろう。刻印された言葉は石牟礼道子とジェイムス・ジョイスの言葉が横に一直線に並んで続いている。石牟礼道子の、自然には決して到達できない人間の業のような言葉の連なりと、ジェイムス・ジョイスの、読み進めることが出来ない断片としての言葉の連なり。私はその言葉を声に出して読んでみたが、まるで運動のような全身を使った、言葉に於ける思考と行為の終わりの無さに息が上がってしまった。これも美術館ではなく、都市空間の中で作品を見る観客自身が必死に意味を追いかける行為があるからこその体験であったと思う。

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二回目の来訪であったが、まだ見ていない作品が多い。あるいは視界には入っているが、向き合えていない作品が街に点在している。美術館の中ですまして見るのと違う、作品を見ることのライブ感がファーレ立川にはあるのではないだろうか。1994年に設置された作品群は美術館という箱から離れて、現在進行形の都市の中で静かに息づく。芸術鑑賞の主体性が叫ばれる時代にあって、先駆的な例として作品たち自身が静かに時を重ねていく。それらの作品は、作家の存在を離れて芸術の存在自体を在らしめていくのであろう。私は心地良い疲れを感じながら、駅前の雑踏へと戻った。しかしそこで感じた雑多な感覚は、美術館を出た後で感じるのとは全く違う、区切ることの出来ないリアルな感覚だった。