行為と絵画

 重度の知的障害の人たちの絵画作品に普段接していて、身体性の高い表現に多く出会う。手で描く場合、何かに見える以前の表現は、その描く行為自身が作品の強度を決めている。しかし、その行為にも様々な段階がある。行為その物であったり、イメージを伴っているものもあり、その無限ともいえる世界は我々人類の謎に迫れるような期待を持たせてくれる。
 普通絵を描く場合、何かをイメージし、それを紙やキャンバスに定着させる。絵にはイメージした痕跡が残り、我々はそれを見る事になる。美術史が絵画におけるイメージを問題にし、絵画の行為性に還元していった歴史は、絵画する行為の神秘性に近づこうとしたからではないだろうか。
 我々は普段行為とイメージは別々に考えている。それは多くの行為が習慣から成り立っていて無意識に身体が動いていることを指している。しかし初めてする行為はやはりイメージが必要であることも忘れてはならない。この行為とイメージの関係性を問題にすることは絵画という存在が如何にして成り立っているのかを示すことになるだろう。
 ふと思ったのだが、もしかしたら絵画というものは天上にあるものではなく、ここかしこに偏在しているものなのではないだろうか。いやそれは日本人的発想であろうか。